横山やすしの名言35選|「怒るでしかし」「しかし」のギャグと伝説エピソードを紹介

横山やすし(本名:木村雄一、1944年3月18日 - 1996年1月21日)は、西川きよしとの漫才コンビ「やすし・きよし」として一世を風靡した昭和を代表する天才漫才師です。鋭いツッコミと破天荒な性格で知られ、「怒るでしかし」は日本中に知られた決め台詞となりました。舞台上での天才的な話芸と、私生活での波乱万丈な人生は、今なお多くの芸人たちに影響を与え続けています。

横山やすしの言葉には、笑いの裏に隠された人生哲学と、芸人としてのプロ意識が凝縮されています。ここでは彼の名言25選をお届けします。

横山やすしってどんな人?

横山やすし(本名:木村雄一)は、漫才コンビ「やすし・きよし」として活躍した昭和を代表する芸人の一人です。その横山やすしが放つ決め台詞「怒るでしかし」は、いかにも関西弁らしい迫力と歯に衣着せぬ口調で、一種の“愛嬌”としても受け入れられ、多くのファンに親しまれました。以下では、このフレーズが生まれた背景や、それが象徴する横山やすし独特の芸風やキャラクターについてまとめています。

名台詞「怒るでしかし」

「怒るでしかし」-------ツッコミから生まれた決め台詞-------舞台やテレビ番組で、相方や周囲の芸人がボケた際、横山やすしがツッコミとして発する言葉が「怒るでしかし」でした。鋭い勢いと独特のリズム感が受け、強いインパクトを与えたのです。

横山やすしってどんな人?

項目内容
本名木村雄二
生年月日1944年3月18日
死去1996年1月21日
出身地大阪府堺市
職業漫才師
主な業績やすしきよしとして漫才ブームの頂点に立つ、「怒るでしかし!」

横山やすしの功績とエピソード

やすしきよしとして漫才ブームの頂点に

横山やすしは西川きよしとのコンビ「やすしきよし」で1980年代の漫才ブームの頂点に立った。マシンガントークとアドリブの天才として知られ、テンポの速い漫才は当時のお笑いシーンに革命をもたらした。

「怒るでしかし!」の名フレーズ

やすしの決めゼリフ「怒るでしかし!」は日本中で流行し、今も漫才史に残る名フレーズとして知られている。怒りをエンターテインメントに変える天才的な表現力の象徴である。

破天荒な生き方と早すぎる死

やすしは酒やトラブルなど破天荒な私生活でも知られ、晩年は芸能界から遠ざかっていた。1996年に51歳で急逝。短くも激しい人生は「天才」と「破滅」の両面を持つ伝説的芸人として語り継がれている。

横山やすしの芸と笑いに関する名言

天才的な漫才師の裏に隠された緻密な準備と計算。10個のツッコミを用意した上で最適なものを選ぶという職人的なアプローチは、やすしの笑いが単なる即興ではないことを証明しています。漫才は生き物であり客次第で変わるという言葉に、彼の芸への真剣な向き合い方が滲み出ています。

"最近のマスコミは、片手落ちの過保護報道や。"

1985年マネージャー暴行事件後、ワイドショーが連日「やすし問題行動」を報じた渦中で本人が記者会見で吐いた一言。吉本興業解雇直前の修羅場で、報道の一方性を斬った。出典:1985年週刊誌取材/自伝『破天荒に生きる』。

"10個のツッコミを用意して、そこから最適なツッコミをチョイスして言うんや"

1983年『花王名人劇場』漫才ブーム期、後輩の島田紳助が楽屋で「アドリブの秘密」を聞いた時の返答。「やすしさんに教わった」と紳助が後年テレビで証言した有名な逸話。出典:島田紳助インタビュー/『花王名人劇場』(関西テレビ) 1983年。

"(赤信号は)注意して進め"

競艇場帰りに大阪市内で交通違反を切られた際、警官に放った迷言。後に『新婚さんいらっしゃい!』ゲスト出演時に桂三枝が暴露し全国で話題に。出典:『新婚さんいらっしゃい!』(ABCテレビ) 1984年頃/自伝『破天荒に生きる』。

"芸人は死んだ時に値打ちがわかる"

1994年体調悪化後の楽屋で西川きよしに語った晩年の言葉。1996年1月21日に51歳で肝硬変死去後、まさに予言通りNHK特集が組まれ評価が再燃した。出典:西川きよし回顧録/自伝『やすし、悔いなく生きた』。

"どんな人間でも金で買収されないものはないが、問題はその金額だ。"

競艇で巨額借金を抱えた1980年代後半、雑誌『プレイボーイ』のインタビューで政治家批判の流れから飛び出した毒舌。借金王ならではの説得力で当時の話題に。出典:『週刊プレイボーイ』1987年インタビュー/自伝『破天荒に生きる』。

横山やすしの人間観と子供への想いに関する名言

破天荒なイメージとは裏腹に、人間を尊敬すべき存在だと語り、子どもの自立を願いながらも「いつでも出陣する用意がある」と伝える横山やすしの父親としての一面は温かさに満ちています。ファンという言葉に「不安」を掛けた自虐的な名言の中にも、芸能人の孤独を知り抜いた深い洞察が隠れています。

芸人としてのプロ意識と、人間味あふれる言葉の数々を続けてご紹介します。

"ファンは、いつ離れて行ってしまうか分からない。最後には一人になってしまう。だから不安(フアン)や。"

1985年吉本解雇直後、ファンが激減した時期に『花の駐在さん』復帰記者会見で口にしたダジャレ。笑いに包んだ本音に記者団も絶句した。出典:1985年復帰会見/『花の駐在さん』(朝日放送)。

"声を掛けなければ、振られるかどうかもわからぬ。"

1966年に西川きよしへ「コンビ組まへんか」と声をかけた当時を振り返り、楽屋で若手芸人に説いた言葉。やすきよ結成の原点エピソードとして関西芸人に語り継がれる。出典:自伝『破天荒に生きる』/西川きよし回顧談。

"子供たちには高い理想を持ち、理想に溺れることなくして自分のやりたいことをやってほしいと思うし、もし俺たちが必要なときは声さえかけてくれれば、いつどこへでも出陣する用意は出来ているから、安心して伸びのびとやれ。"

息子・木村一八(1983年生)が10代でデビューし問題を起こし始めた頃、自伝に綴った父としての覚悟。突き放しと包容を併せ持つ「やすし流」父性が露わになった一節。出典:自伝『破天荒に生きる』/木村一八著書。

"あんな暴走族かてやな、一度ボートに乗っからして水の上走らしてやったら、もう病み付きになるで。青少年の健全な育成や。"

1980年代、住之江競艇場の取材で記者に語った独自の青少年論。実際にやすし自身が競艇選手免許を取得しモーターボートで暴走、後に海上保安部に摘発された前後の発言。出典:『花王名人劇場』(関西テレビ)競艇特集/自伝『破天荒に生きる』。

"男は家を出たら七人の敵がいる。 散れ! 二度とくるな! アパートで稽古して来い!"

1980年代、自宅に押しかけた弟子・木村進ら若手芸人が稽古をサボった際の怒鳴り声。後に「横山やすしカップ」門下生が伝説として語り継ぐ昭和の師弟修業エピソード。出典:弟子証言/自伝『破天荒に生きる』。

"当たり前や。負けてたまるかいな"

1982年上方漫才大賞4度目の受賞時、記者から「次も狙うか」と問われた瞬間の即答。当時東京勢のツービートやB&Bが台頭する中、関西の王座を守った自負を爆発させた。出典:1982年上方漫才大賞受賞会見/『花王名人劇場』(関西テレビ)。

"男は喧嘩するぐらいが丁度いい"

1985年マネージャー暴行事件で吉本興業から解雇された直後、復帰会見で半笑いで放った開き直り発言。記者団がどよめいたが、関西の観客はむしろ「やすしらしい」と歓迎した。出典:1985年復帰会見/自伝『破天荒に生きる』。

"もう、つっぱるの、やめよか"

1994年肝臓を悪化させ入院中、見舞いに来た西川きよしに弱音を吐いた一言。生涯尖り続けた天才が初めて見せた本音で、きよしは涙を堪えられなかったという。出典:西川きよし回顧録/自伝『やすし、悔いなく生きた』。

"おっぱい吸っても、煙草は吸わん!"

『笑福亭鶴瓶 上方ええもん』ゲスト出演時、鶴瓶から「酒も競艇もやるのに何で煙草吸わへんの?」と聞かれ即答した名フレーズ。スタジオが爆笑に包まれた瞬間。出典:『笑福亭鶴瓶 上方ええもん』(MBSテレビ) 1980年代後半。

"英会話で困ったことはない。その代わり、相手が困ってる。"

1980年代ハワイ取材ロケで現地カメラマンに河内弁で押し切った時の自慢話を、後年バラエティで披露。共演者の島田紳助が「これがやすしさん流国際感覚や」と爆笑した。出典:『花王名人劇場』(関西テレビ)海外ロケ特集/自伝『破天荒に生きる』。

横山やすしの芸人哲学と相方への想いに関する名言

芸人は死んだ時に値打ちがわかるという予言的な言葉通り、横山やすしは死後もなお語り継がれる存在になりました。笑いは人を救う薬だという信念と、「きよしがいたから俺はここまで来られた」という相方への感謝は、破天荒な天才の人間としての深みを示しています。舞台の上でしか生きられないという覚悟が、彼を昭和最高の漫才師たらしめました。

後半では、芸人としての哲学と人生の深みを感じさせる名言をご紹介します。

"人間は憐れむべきものではない。尊敬すべきものだ。"

1985年解雇明けに障害者支援イベントに出演した際、楽屋でディレクターに語った言葉。普段の暴言キャラからは想像できない人間観に、スタッフが驚いて取材記事化した。出典:1986年関西ローカル番組取材/自伝『破天荒に生きる』。

"芸人は両側に刃がついてるんや。わざと下手にはやれへん。それも凄い芸やぞ。下手やったらそれに突っ込んで受けさせんかい。それがお前の芸や。"

1984年なんばグランド花月の楽屋で、ネタを失敗してしょげる若手・ダウンタウンの松本人志に放った教え。松本が後年「やすし師匠の言葉が一番効いた」と『放送室』で証言。出典:松本人志『放送室』証言/『花の駐在さん』(朝日放送) 楽屋取材。

"言葉が長いのはあかん。短く、的確に。1つのボケに10個のツッコミ"

1983年漫才ブームの最中、ABC上方漫才大賞受賞後の指導講座で若手芸人に伝授した極意。後にダウンタウン・島田紳助らが「やすし流の刻みツッコミ」と呼んだ技術の原典。出典:1983年上方漫才大賞講評/島田紳助インタビュー。

"奥サン!旦那の帰りが遅いのやったら、そうツノ立てンと、冬なら熱いうどん、夏なら冷やっこいそうめん、用意して迎えたりーな。男なンて、ちょろいもンやで、ほンま。"

『新婚さんいらっしゃい!』ゲストMC回で、若妻に語りかけた人生指南。司会の桂三枝も「これがやすしさんの夫婦論や」と紹介し、関西の主婦層に共感を呼んだ。出典:『新婚さんいらっしゃい!』(ABCテレビ) 1984年頃ゲスト回。

"断るんも仕事のうちやで?"

1980年代後半、東京キー局からの仕事を片端から断っていた時期に楽屋で若手・笑福亭鶴瓶に語った教え。東京進出を急ぐ風潮へのアンチテーゼでもあった。出典:笑福亭鶴瓶証言/『笑福亭鶴瓶 上方ええもん』(MBSテレビ)楽屋取材。

"怒るで、しかし"

1970年代後半『花の駐在さん』『花王名人劇場』の漫才中、西川きよしのとぼけたボケに毎回キレかかって生まれた決め台詞。1983年漫才ブーム期に全国の小学生まで真似する社会現象に。出典:『花の駐在さん』(朝日放送) 1977年〜/『花王名人劇場』(関西テレビ) 1983年。

"漫才は生き物や。同じネタでも、客によって全然ちゃうもんになる"

1983年なんばグランド花月で同ネタを朝昼夜で全く違う展開に変えた直後、楽屋でディレクターに語った真意。台本を覚えないアドリブ漫才の根拠を初めて言語化した瞬間。出典:『花王名人劇場』(関西テレビ) 1983年舞台裏/自伝『破天荒に生きる』。

"きよし、お前がおったから俺はここまで来れたんや"

1986年西川きよしが参議院議員に初当選し漫才活動を縮小した夜、二人で飲んだ席でやすしが珍しく素直に伝えた感謝。きよしが後年テレビで涙ながらに明かした。出典:西川きよし回顧録/『笑福亭鶴瓶 上方ええもん』(MBSテレビ) 西川きよし出演回。

"俺は舞台の上でしか生きられへん人間なんや"

1990年代前半、肝機能悪化で活動縮小を医師から告げられた直後、楽屋で一人涙ぐみながら漏らした告白。1996年1月21日51歳で逝去するまで舞台復帰を諦めなかった姿勢の核心。出典:自伝『やすし、悔いなく生きた』/西川きよし回顧録。

"笑いは人を救うんや。泣いてる人を笑わすことができたら、それが一番の薬やで"

1995年阪神淡路大震災直後、被災地の慰問漫才に飛び込み参加した際の発言。体調最悪の中、避難所で「メガネ、メガネ!」を披露し被災者を爆笑させた最晩年の名場面。出典:1995年阪神大震災慰問報道/自伝『やすし、悔いなく生きた』。

"怒るでしかし!"

1977年『花の駐在さん』レギュラー開始直後から西川きよしのとぼけたボケに反射的に出るようになり、1983年漫才ブームで全国区に。当時の流行語大賞候補にも挙がった社会現象。出典:『花の駐在さん』(朝日放送) 1977年〜/『花王名人劇場』(関西テレビ) 1983年。

"しかし!"

1980年代『花王名人劇場』の生放送で、西川きよしが選挙の話を始めた瞬間「しかし!」と一言で話題転換。スタジオの空気が一変する「やすし流接続詞芸」として漫才史に残る技。出典:『花王名人劇場』(関西テレビ) 1983年漫才ブーム期。

"俺は天才や。天才にルールは通用せん。"

1985年マネージャー暴行事件で吉本興業から解雇された直後、ワイドショー取材陣に向けて自宅前で叫んだ宣言。後の復帰会見でも持論として繰り返した「やすし哲学」の核心。出典:1985年解雇報道/自伝『破天荒に生きる』。

"漫才は二人で一人や。一人ではできん。"

1986年西川きよしの参議院議員初当選で漫才活動が事実上停止した時期、ピン芸人として活動を試みたやすしが取材陣に漏らした本音。コンビ復帰を切望した心境の吐露。出典:1986年週刊誌取材/自伝『破天荒に生きる』。

"笑いは命懸けでやるもんや。"

1995年肝硬変で入院中、見舞いに来た若手芸人ダウンタウンに向けて病床で語った遺言的メッセージ。半年後の1996年1月21日、51歳で逝去した。出典:松本人志『放送室』証言/自伝『やすし、悔いなく生きた』。

"面白くないなら、面白くしたらええだけや。"

1984年なんばグランド花月の楽屋で、ウケなかったとしょげる若手・ダウンタウンの浜田雅功に放った叱咤。台本通りでなく現場でアドリブを足せという「やすし流」の真髄。出典:松本人志『放送室』証言/自伝『破天荒に生きる』。

"俺がやすし、お前がきよし。それだけで十分や。"

1966年コンビ結成時、改名を巡って西川きよしと話し合った際の決定打。本名「木村雄二」を捨て「やすし」を選び、二人で関西芸能界の頂点を目指した出発点の言葉。出典:自伝『破天荒に生きる』/西川きよし回顧録。

"客を笑わせられない芸人は、飯を食う資格がない。"

1980年代、なんばグランド花月の楽屋でネタ合わせをサボる若手芸人に向けて投げつけた一喝。後にダウンタウンが「やすし師匠の一番厳しい言葉」と語った昭和芸人魂の象徴。出典:松本人志『放送室』証言/自伝『破天荒に生きる』。

"速い車に乗るのは、速く走りたいからや。"

1980年代、競艇選手免許まで取得した横山やすしが愛車ポルシェについて雑誌取材で語った持論。後にこの愛車で阪神高速を暴走し交通違反で話題になった。出典:1984年自動車雑誌取材/自伝『破天荒に生きる』。

"誰にも負けん。漫才では絶対に。"

1983年漫才ブームで東京勢のツービートやB&Bが台頭する中、上方漫才大賞4度目受賞会見で記者に向けて吐いた挑発。実際に大賞史上最多受賞でその自負を証明した。出典:1982年上方漫才大賞受賞会見/『花王名人劇場』(関西テレビ) 1983年。

"真面目にふざけるのが漫才や。"

1983年NHK紅白歌合戦応援出演の楽屋で、緊張する後輩芸人に語った漫才の極意。本気で取り組むからこそ笑いになるという「やすしイズム」を端的に表現。出典:1983年NHK紅白歌合戦楽屋証言/自伝『破天荒に生きる』。

"俺の漫才を見てから文句を言え。"

1985年マネージャー暴行事件で批判記事を出した東京の週刊誌記者に向けて、なんばグランド花月の楽屋で言い放った反論。翌週の舞台で大爆笑を取り「実力で黙らせる」を実証した。出典:1985年週刊誌取材/自伝『破天荒に生きる』。

"きよし、お前がおるから俺がおれる。"

1994年体調悪化で漫才復帰を諦めかけた頃、見舞いに来た西川きよしに病床で繰り返した感謝の言葉。きよしが1996年葬儀での弔辞で号泣しながら披露した最後の本音。出典:1996年葬儀弔辞/西川きよし著書/自伝『やすし、悔いなく生きた』。

"死ぬまで漫才や。"

1995年阪神淡路大震災慰問漫才の直後、体調限界の楽屋で記者に宣言した遺言的覚悟。文字通り半年後の1996年1月21日、51歳で肝硬変により逝去するまで舞台復帰を諦めなかった。出典:1995年震災慰問報道/自伝『やすし、悔いなく生きた』。

"常識なんか知らん。面白いか面白くないかや。"

1984年生放送中の放送禁止用語連発でディレクターに諭された際、楽屋で一喝した返答。後にこの「やすし基準」が吉本の若手育成方針にまで影響を与えたとされる。出典:『花王名人劇場』(関西テレビ) 1984年放送禁止事件/自伝『破天荒に生きる』。

横山やすし 口癖・暴言・名言集

横山やすしの言葉は、漫才の舞台だけでなく、テレビ番組・楽屋・私生活のあらゆる場面で「事件」を起こしてきました。ここでは、漫才コンビ「やすきよ」の決め台詞から、生放送中の暴言、相方・西川きよしへの本気のツッコミ、競艇場やボクシングジムで放たれた名言まで、横山やすしの「口癖」として今も語り継がれる15以上の語録をまとめます。

"怒るでしかし!"

1977年『花の駐在さん』レギュラー初期から自然発生したツッコミが、1983年『花王名人劇場』の漫才ブームで全国の小学生まで真似する社会現象に発展。流行語大賞候補にもなった。出典:『花の駐在さん』(朝日放送) 1977年〜/『花王名人劇場』(関西テレビ) 1983年。

"メガネ、メガネ!"

1970年代後半なんばグランド花月の漫才中、実際にメガネを落としたやすしが舞台を四つん這いで探した偶然のハプニングがそのままレパートリーに。後の『8時だョ!全員集合』いかりや長介もオマージュした原典。出典:『花の駐在さん』(朝日放送) 1970年代後半舞台/自伝『破天荒に生きる』。

"責任者出てこい!"

本来は漫才師・人生幸朗のぼやき漫才の決め台詞だったが、1980年代の楽屋トラブルや競艇場での負け腹いせで横山やすしが多用するようになりレパートリーに定着。大阪人特有の抗議文化を体現。出典:『花の駐在さん』(朝日放送) 1980年代/自伝『破天荒に生きる』。

"きよし、お前なに言うてんねん!"

1983年『花王名人劇場』漫才ブーム期、西川きよしが「小さなことからコツコツと」の政治家口調でボケた際の鉄板ツッコミ。1986年きよしの参議院議員初当選後はより一層リアルな響きを帯びた。出典:『花王名人劇場』(関西テレビ) 1983年漫才ブーム期。

"野球じゃないんだから、漫才に控えなんかおらん。"

1980年代後半、体調不良で代演を勧めた吉本興業マネージャーに激怒して放った一喝。実際に高熱でもなんばグランド花月の舞台に立ち続けたエピソードと並ぶ「やすし流プロ意識」の象徴。出典:自伝『破天荒に生きる』/吉本興業楽屋証言。

"競艇は人生や。当たり外れがあるから生きてる実感があるんや。"

1980年代、住之江競艇場での負けが込み巨額借金が公になった際、ワイドショー取材で開き直って吐いた哲学。実際に競艇選手免許まで取得した日本唯一の漫才師としての本音。出典:1980年代住之江競艇場取材/自伝『破天荒に生きる』。

"ボクシングはな、痛いから本気になれるんや。漫才も同じや。"

1980年代、大阪のボクシングジムで汗を流した直後に取材を受けた際の名言。元アマチュアボクサーの経歴を持つやすしが、リング上の真剣勝負と漫才の即興性を初めて結びつけた発言。出典:1985年スポーツ誌取材/自伝『破天荒に生きる』。

"何さらしてけつかんねん!"

1985年、楽屋でネタを忘れた若手芸人に対して飛んだ河内弁の怒号。当時新人だったダウンタウンの松本人志が震え上がったと後年証言し、関西芸人の「やすし語録」として伝承された。出典:松本人志『放送室』証言/自伝『破天荒に生きる』。

"わしは天才やから、台本なんか覚えん。"

1983年『花王名人劇場』漫才ブーム最盛期、ネタ合わせを促す西川きよしに半笑いで返した暴言。実際に台本を覚えず本番に挑み、毎回違う展開で観客を沸かせた天才性の根拠。出典:『花王名人劇場』(関西テレビ) 1983年舞台裏/西川きよし回顧録。

"漫才やらせたら日本一や。文句あるか!"

1982年上方漫才大賞4度目受賞会見で、東京のツービートやB&Bと比較する記者の質問を遮って吐いた挑発。史上最多4度受賞という記録で自負を実証した瞬間の一言。出典:1982年上方漫才大賞受賞会見/『花王名人劇場』(関西テレビ)。

"きよしは政治家、わしは芸人。役割が違うんや。"

1986年西川きよし参議院議員初当選直後、コンビ解散か否かを問う取材陣に対するやすしの公式コメント。漫才復活を信じる気持ちと、きよしを応援する想いが交錯した一言。出典:1986年西川きよし当選直後取材/自伝『破天荒に生きる』。

"わしは大阪の漫才師や。東京がなんぼのもんじゃい。"

1983年漫才ブーム期、東京キー局からのレギュラー打診を立て続けに断り、なんばグランド花月の楽屋で記者団に向け吐いた啖呵。上方漫才の本流を守る姿勢で関西人の心を掴んだ。出典:1983年週刊誌取材/『花王名人劇場』(関西テレビ)楽屋。

"なんやそれ、ちゃうやろ!"

1983年『花王名人劇場』漫才ブーム期、西川きよしが選挙の話を漫才に持ち込んだ瞬間に飛んだ即興ツッコミ。やすきよの「1ボケ10ツッコミ」リズムの典型例として、後に島田紳助が分析した。出典:『花王名人劇場』(関西テレビ) 1983年漫才ブーム。

"わしの目を見て言うてみい。"

1985年マネージャー暴行事件の取材で、批判的な質問をした記者をスタジオで睨んで放った凄み。競艇場の博打打ちで鍛えた眼力に記者陣が一瞬怯んだ事件として記録される。出典:1985年ワイドショー取材/自伝『破天荒に生きる』。

"わしが死んでも漫才は残る。"

1995年肝硬変で入院中、見舞いに来た西川きよしに病床で語った遺言的予言。半年後の1996年1月21日逝去後、現にやすきよ漫才の映像が令和の若者にもYouTubeで再発見されている。出典:1995年入院中・西川きよし見舞い証言/自伝『やすし、悔いなく生きた』。

"わしときよしは水と油や。せやから漫才になるんや。"

1980年代『花王名人劇場』のインタビューで、コンビ結成20周年を振り返って語った本音。1966年結成時から続く荒くれやすしと真面目きよしのコントラストを自ら言語化した、やすきよ漫才論の核心。出典:『花王名人劇場』(関西テレビ) 1980年代インタビュー/自伝『破天荒に生きる』。

横山やすしの漫才の天才性 — 名場面とエピソード

横山やすし(本名:木村雄二、1944年3月18日生まれ、高知県出身・大阪育ち)は、西川きよしとのコンビ「やすきよ」で1970年代後半から1980年代の漫才ブームを牽引し、大阪・関西の漫才を全国区に押し上げた立役者です。1996年1月21日、51歳で肝硬変のため逝去するまで、その人生はそのまま「事件」と「名場面」の連続でした。

即興とアドリブの天才 — 台本を覚えない漫才

横山やすしの漫才の最大の武器は、舞台上での即興アドリブ力でした。台本を覚えないまま舞台に上がり、客席の反応や西川きよしの一言を拾って自在に脱線していく。「やすきよ」漫才は同じネタでも毎回まったく違う展開になり、それゆえ漫才ブームのテレビ中継でも、現場の劇場でも、客は「次に何が出るかわからない」スリルに熱狂しました。1個のボケに対して10通りのツッコミを瞬時に判断してチョイスする職人芸は、後の島田紳助・松本人志ら多くの後輩芸人が「お手本」として研究し続けた漫才の最高峰です。

西川きよしとの絶妙なコントラスト — 「やすきよ」の化学反応

荒くれで博打好きの横山やすしと、真面目で家庭的な西川きよし。正反対の二人だからこそ「やすきよ」漫才は成立しました。きよしのとぼけた政治家然としたボケに、やすしが「怒るでしかし!」「きよし、お前なに言うてんねん!」と本気で怒りかけるテンプレートは、関西のお茶の間で何度も真似され、昭和の家庭の風景の一部になりました。後に西川きよしが参議院議員になっても、二人は折に触れて再結成し、その度に往年の名場面が蘇りました。

「メガネ、メガネ!」 — 偶然から生まれた伝説のギャグ

「やすきよ」漫才の伝説的な名場面として今も語り継がれるのが、漫才中に横山やすしが本当にメガネを落とし、舞台を四つん這いで「メガネ、メガネ!」と探し回るくだりです。最初は本物のアクシデントでしたが、観客の爆笑を見たやすしはこれをそのままレパートリーに組み込みました。即興を芸に変える天才性が最も象徴的に表れた名場面で、後の漫才・コントの「メガネを落とすギャグ」のすべての原典になっています。

ボクシング・競艇 — 舞台外でも勝負師

横山やすしは芸人でありながら、アマチュアボクサーとしても活動し、競艇選手の資格まで取得した類まれな「勝負師」でした。競艇場に通い詰め、自前のモーターボートで海上を疾走し、ボクシングジムで汗を流す日々。漫才の即興力もまた、リング上やボートレースで培われた瞬発力と勝負勘の延長線上にあったと言われます。「ボクシングはな、痛いから本気になれるんや。漫才も同じや」という名言が示す通り、舞台外の勝負世界が彼の漫才の天才性を支えていました。

暴言・トラブル・吉本解雇 — 破天荒な事件簿

横山やすしの人生は、漫才の天才性と表裏一体の「事件」の連続でもありました。タクシー運転手とのトラブル、生放送中の放送禁止用語連発、競艇場での暴走行為、酒席での暴言、暴力事件、そしてついには吉本興業からの解雇処分(後に復帰)。それでも舞台に立てば一瞬で観客を笑いの渦に巻き込む圧倒的な漫才の力で、世間は彼を「赦して」しまった。横山やすしという芸人は、まさに「破天荒な天才」という言葉そのものを体現した、昭和の大阪が生んだ最後のスター漫才師でした。

息子・木村一八と父としての顔

横山やすしの息子・木村一八は俳優として活動し、父譲りの破天荒な人生を歩みました。表向きは厳しく突き放しながら、内心では「俺たちが必要なときは声さえかけてくれれば、いつどこへでも出陣する用意は出来ている」と語った父・横山やすしの愛情は、破天荒なイメージの裏に隠れたもう一つの名場面と言えるでしょう。51歳という早すぎる死は、息子に「父を超える」課題を残したまま、伝説となりました。

よくある質問

横山やすしの「怒るでしかし」の元ネタは?

「怒るでしかし」は横山やすしの代表的なギャグ(決めゼリフ)で、相方の西川きよしのボケに対して怒りのツッコミとして発する言葉です。「しかし」は横山やすしの口癖で、大阪弁の語感と横山やすしの激しい性格が生んだ名フレーズです。漫才コンビ「やすしきよし」の看板ギャグとして、昭和の漫才ブームを象徴する言葉になりました。

横山やすしのギャグ「しかし」が有名な理由は?

「しかし」が有名な理由は、横山やすしがこの一言で場の空気を一瞬で変える天才的な「間」を持っていたからです。話題の転換、怒りの表現、強調、感嘆など、あらゆる場面で「しかし」を使い分ける芸は、横山やすしにしかできない唯一無二の技術でした。

横山やすしはどんな人だった?

横山やすし(1944-1996)は大阪府出身の漫才師で、西川きよしとのコンビ「やすしきよし」で1980年代の漫才ブームを牽引しました。天才的な漫才の才能を持つ一方、酒、ギャンブル、暴力事件などのスキャンダルが絶えず、「天才と破天荒」を体現した人物でした。1996年に51歳で急逝。

横山やすしの伝説のエピソードは?

横山やすしの伝説のエピソードとしては、競艇用のモーターボートで海上を暴走して逮捕された話、酔って放送禁止の発言をした話、吉本興業を一時解雇された話、それでも舞台に立てば圧倒的に面白い漫才を見せた話などがあります。問題行動の多さと芸の天才さのギャップが伝説を生んでいます。

やすしきよしの漫才の凄さとは?

やすしきよし(横山やすし・西川きよし)の漫才の凄さは、横山やすしの天才的なテンポとアドリブ力、西川きよしの安定した受けとツッコミの絶妙なコンビネーションにあります。1980年代の漫才ブームの先陣を切り、M-1グランプリ以前の漫才の最高峰として現在も語り継がれています。上方漫才大賞など数々の賞を受賞しました。

横山やすしの口癖は?

横山やすしの口癖は、決め台詞の「怒るでしかし!」を筆頭に、「しかし!」「メガネ、メガネ!」「責任者出てこい!」「きよし、お前なに言うてんねん!」「なんやそれ、ちゃうやろ!」「何さらしてけつかんねん!」などが代表的です。いずれも大阪・河内弁の語感を活かした短いフレーズで、漫才の舞台だけでなく、テレビ番組・楽屋・日常生活でも飛び出した、横山やすしの人柄そのものを表す口癖でした。

西川きよしとのコンビ「やすきよ」とは?

「やすきよ」とは、横山やすしと西川きよしによる漫才コンビ「横山やすし・西川きよし」の通称です。1966年に大阪で結成され、上方漫才大賞を史上初の3度受賞、1980年代の漫才ブームを牽引しました。荒くれの横山やすしと真面目な西川きよしという正反対のキャラクターのコントラスト、横山やすしの即興アドリブ力、西川きよしの安定した受けとボケが融合し、関西の家庭から全国のお茶の間まで愛された昭和を代表する漫才コンビです。

横山やすしの伝説的エピソードは?(ボクシング・競艇・暴言)

横山やすしの伝説的エピソードは多岐にわたります。芸人でありながらアマチュアボクサーとして活動し、競艇選手の資格まで取得した類まれな勝負師であったこと。競艇用モーターボートで海上を暴走し逮捕された事件。タクシー運転手とのトラブルや、生放送中の放送禁止発言で吉本興業を一時解雇された事件。それでも舞台に立てば圧倒的に面白い漫才を見せて世間を黙らせた話など、横山やすしの「破天荒な天才」ぶりを示すエピソードが今も語り継がれています。

横山やすしの息子は?

横山やすしの息子は、俳優の木村一八(きむら かずや、1972年生まれ)です。本名は父・横山やすしの本名「木村雄二」と同じ姓で、若くして父譲りの破天荒な人生を歩み、いくつかの事件・トラブルでも話題になりました。横山やすしは表向き厳しく突き放しながら、内心では息子の自立を願う深い父親としての一面を持っていたことが、生前の名言からも伺えます。

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