高杉晋作の名言35選!名言「おもしろきこともなき世を面白く」

高杉晋作(たかすぎ しんさく、1839〜1867)は、幕末長州藩が生んだ稀代の風雲児である。長州藩萩城下の上級藩士の家に生まれ、19歳で吉田松陰の松下村塾に入門。久坂玄瑞と並び「松門の双璧」と称された俊英は、わずか8年後の1867年4月14日、肺結核のため27歳で没するまでに、日本史を動かす激震を立て続けに起こした。

転機は1862年の上海渡航であった。幕府使節船・千歳丸に随行員として乗り込んだ晋作は、アヘン戦争後の清国がイギリスの半植民地に堕した惨状を目の当たりにし、「日本もこうなる」という強烈な危機感を抱いて帰国する。攘夷の志は具体的な改革構想へと姿を変えた。翌1863年6月、下関に奇兵隊を創設。武士・農民・町人・力士まで身分を問わず志ある者を集めたこの軍隊は、四民平等の先駆けであり、日本の軍事史上における革命であった。

第一次長州征討の敗北で藩論が恭順に傾くと、晋作は1864年12月15日、長府の功山寺で挙兵。わずか80余名で藩政府軍に立ち向かい、三田尻の海軍局を制圧、ついには藩論をひっくり返した。1866年の第二次長州征討(四境戦争)では海軍総督として丙寅丸を駆り、幕府海軍を撃破。薩長同盟の成立と相まって、徳川幕府崩壊の流れを決定づけた。だが大政奉還を見ることなく1867年に病没。死の床で詠んだ辞世「おもしろき こともなき世を おもしろく」は、看病した野村望東尼が下の句「すみなすものは 心なりけり」を継いだとされ、激動を駆け抜けた27年の生き様そのものを映している。

おもしろき こともなき世を おもしろく
すみなすものは 心なりけり

— 高杉晋作 辞世(1867年、野村望東尼が下の句を付したと伝わる)

辞世と人生観を貫く名言

「おもしろき こともなき世を おもしろく」

慶応3年(1867年)4月、下関の桜山にあった療養先で詠んだ辞世の上の句。記録によれば、看病していた女流歌人・野村望東尼が「すみなすものは 心なりけり」と下の句を付けたとされる。世の中が面白いか否かは外的環境ではなく自分の心の持ちよう次第だ、という晋作の生涯哲学を凝縮した一句である。功山寺挙兵という常識を覆す行動を選んだ男が、死の床でなお「面白がる」姿勢を失わなかったことに、この言葉の重みがある。

出典:辞世の句。『東行先生遺文』所収。慶応3年(1867年)。

「西へ行く 人を慕いて 東行く 我が心をば 神や知るらん」

晋作は脱藩などにあたり「東行(とうぎょう)」を号とした。西方浄土へ旅立った師吉田松陰を慕いながら、自分は逆の東を目指して動乱の世を駆け抜ける——そんな決意を詠み込んだ歌である。師の安政の大獄での刑死から数年、松陰の遺志を背負って奇兵隊創設へと突き進む晋作の心理的支柱が、この一首に表れている。

出典:『高杉晋作詩文集』所収。文久年間。

「人間、窮地におちいるのはよい。意外な方角に活路が見出せるからだ。しかし、死地におちいれば、それでおしまいだ。だから、おれは困ったの一言は吐かない」

第一次長州征討で長州藩が敗北し、藩論が幕府への恭順一色に傾いた1864年末、絶体絶命の状況下で晋作が口にしたとされる言葉。窮地(追い詰められた状態)と死地(諦めて動かない状態)を峻別し、「困った」と言って思考停止することを自らに禁じた。司馬遼太郎『世に棲む日日』など後世の文学作品で広く流布した一節で、語録としては伝聞色が強いものの、功山寺挙兵に踏み切った晋作の胆力を見事に言い当てている。

出典:伝・高杉晋作。司馬遼太郎『世に棲む日日』等で紹介。一次史料での確認は限定的(要注意)。

革命と挙兵を支えた名言

「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」

晋作の行動哲学を端的に表したと伝わる句。一度動き出せば雷電のように激しく、声を上げれば暴風雨のように世を揺るがす——奇兵隊結成、功山寺挙兵、第二次長州征討での海戦指揮と、短期間に常識を覆す行動を連発した晋作の生き方そのものを言い表す。伊藤博文が後年、晋作を評して用いたとも伝わる。坂本龍馬と並び、「動く」ことを最大の価値とした幕末志士の典型である。

出典:伝・高杉晋作評。伊藤博文の追悼文等で言及。

「これより長州男児の腕前お目に懸け申すべく」

1864年12月15日、長府・功山寺での挙兵時、三条実美ら五卿の前で晋作が宣言したと伝わる言葉。藩論が恭順に傾くなか、わずか80余名の同志を率いて藩政府軍に立ち向かう前夜の口上である。「腕前を見せます」という気負わない一言に、勝算より気概を選んだ晋作の覚悟が滲む。この挙兵が長州藩の藩論を倒幕へと反転させ、明治維新の扉を開いた。

出典:『東行先生遺文』および『防長回天史』所収。元治元年12月15日。

「国のために家が潰れても、家などは軽いものである。世間が僕を狂っているといっても構わない」

奇兵隊創設や功山寺挙兵の前後、家督や藩内での立場を顧みず行動した晋作の心境を伝える書簡口調の一節。長州毛利家の家臣として代々禄を受けた家を潰しても国の独立を守る——個より公を優先する武士的精神と、それを「狂」と評されてもよしとする覚悟が同居する。吉田松陰から受け継いだ「狂」の精神(=世俗的常識を超えて志を貫く態度)の継承者であることを宣言する一句でもある。

出典:『東行先生遺文』所収書簡より。元治〜慶応年間。

「諸君、狂いたまえ」

奇兵隊や同志たちへ向けたとされる激の言葉。常識や前例に縛られた小さな枠を打ち破り、「狂」と呼ばれてもよいから志を貫け、という呼びかけである。晋作自身が松陰から「狂」の系譜を受け継いだ自覚を持っていた証左でもあり、現代でも変革期のスタートアップやアーティストに引用されることが多い。出典の確証は限定的で、後世の整形を含む可能性がある。

出典:伝・高杉晋作。確実な一次史料での確認は限定的(要注意)。

独立自尊と志の名言

「人は旧を忘れざるが義の初め」

「義(正しい道)」の出発点は、過去の恩義や旧友を忘れないことだ、という意。師吉田松陰の刑死後も生涯にわたって松陰の墓参を欠かさず、松門の同志を結束させ続けた晋作の人物観をよく示す。同時代に活躍した勝海舟福沢諭吉のように合理主義一辺倒ではなく、晋作には「義理」を重んじる古典的武士の倫理が色濃く残っていた。

出典:『東行先生遺文』所収。慶応年間。

「少年の頃、読んだ本に『学問を成すなら世間から利口と思われる人になるな。世間から愚者と思われる人になれ』とあったので、世間から愚者と思われる人になろうと僕は願った」

少年期の読書体験を回想した独白。利口ぶって世間の評価に媚びる人間より、愚直に信じる道を進む者であれ——という処世観を、晋作は10代から胸に刻んでいたという。藩のエリートコースを捨て奇兵隊を創設し、藩政府に弓を引いた行動原理は、この少年期の願いに端を発している。西郷隆盛の「敬天愛人」と並び、幕末志士たちが共有した「愚」を価値とする精神文化の典型例である。

出典:『東行先生遺文』所収回想録より。

「苟且にして時流に従う勿れ」

「苟且(こうしょ)」とは、その場しのぎ、間に合わせの意。一時の風潮や安易な妥協に身を任せてはならない——藩内で攘夷から倒幕へと潮流が変転する中、信念に基づいて行動せよと自らと同志に課した戒めである。第一次長州征討での恭順論に屈しなかった晋作の姿勢は、この言葉の実践そのものであった。

出典:『高杉晋作詩文集』所収漢詩文より。

挑戦と行動を促す名言

「やってみせ、言って聞かせて、させてみる——の前に、まず己が動け」

奇兵隊創設時、身分を超えて志願者を集めるにあたり、晋作はまず自らが上士の身分を脱ぎ、隊員と同じ釜の飯を食ったと伝わる。指揮官が机上で命じるだけでは人は動かない、という現場主義の体現であった。山本五十六の格言と類似するが、晋作の場合は奇兵隊運営に裏打ちされた実践哲学である。なお本句は後世の整形による可能性が高い(要注意)。

出典:伝・高杉晋作。後世の整形を含む可能性あり(要注意)。

「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし」

吉田松陰が獄中から弟子の晋作・久坂玄瑞らに送った書簡の一節で、晋作が生涯の指針として何度も引用したとされる。死ぬべきときには潔く死に、生きて成すべきことがあるなら必ず生きよ——この生死を相対化する松陰の教えが、晋作の挙兵と療養療養を選び分ける判断軸となった。本人の言葉ではないが、晋作哲学の源流として欠かせない一句である。

出典:吉田松陰書簡(安政6年・1859年)。晋作が引用・書写。

友情と粋を映す詩歌・俗謡

「三千世界の鴉を殺し、ぬしと朝寝をしてみたい」

下関の遊郭で晋作が口ずさんだとされる都々逸(どどいつ)。三千世界(全宇宙)の鴉を皆殺しにしてでも、愛する人と朝までゆっくり寝ていたい——という大胆な恋情の歌である。革命家としての張り詰めた表情の裏にある、艶っぽく洒脱な人間味を伝える代表作。下関の馴染みの愛人おうのとの逸話と結びつけて語られることが多い。明治期に俗謡として広く流行し、晋作の人間像を立体化した。

出典:下関花柳界の口伝。『東行先生遺文』にも採録。元治〜慶応年間。

「世に棲む日日 数えきれざるも 我が一片の心 終に変わらず」

晋作が好んで詠じた漢詩の一節(書き下し)。世にあって過ごす日々がどれほど続くか分からないが、我が一片の真心は終わりまで変わらない——という決意の歌。司馬遼太郎が晋作を主人公とする小説の題名「世に棲む日日」をここから採ったため、現代では晋作のキャッチフレーズ的に知られる。死を覚悟しつつ志を貫いた晋作の心境がそのまま漢詩に結晶している。

出典:『高杉晋作詩文集』所収漢詩。慶応年間。

なぜ高杉晋作の名言が今も響くか

高杉晋作の言葉が令和の今も色褪せないのは、その全てが「変革期に身を投じた当事者の肉声」だからである。藩という旧秩序の崩壊と新しい国家の誕生が同時進行するなか、晋作は常識を疑う知性(上海渡航で得たリアリズム)、身分を破る発想力(奇兵隊創設)、少数で多数に立ち向かう胆力(功山寺挙兵)を、わずか数年のうちに連続して発揮した。

「おもしろき こともなき世を おもしろく」が現代のビジネスパーソンや起業家に愛されるのは、この句が「環境を変えられない時、心の持ち方で世界の見え方を変える」という普遍的な技法を27歳の死の床で言い切っているからだ。同様に「諸君、狂いたまえ」は、合議と前例主義に窒息しがちな組織のなかで、なお新しい価値を生もうとする者の背中を押し続ける。

坂本龍馬の構想力、西郷隆盛の包容力、勝海舟の洞察力と並び、晋作の「行動力」は幕末四傑が示した近代日本の人格的原型である。短命であったがゆえに彼の言葉には妥協がなく、若くして何かを成そうとする者にとって、晋作の名言は今も最良の触媒であり続けている。

高杉晋作のその他の名言・語録

「真の勇気とは、恐れを感じながらも前に進むことだ。」

出典:伝・高杉晋作の語録より。一次史料未確認(要注意)。

「人を動かすのは、言葉ではなく行動だ。」

出典:伝・高杉晋作の発言より。一次史料未確認(要注意)。

「失敗は終わりではない。学びの始まりだ。」

出典:伝・高杉晋作の語録より。一次史料未確認(要注意)。

「自分の信念を貫く勇気を持て。」

出典:伝・高杉晋作の発言より。一次史料未確認(要注意)。

「小さなことの積み重ねが、大きな成果を生む。」

出典:伝・高杉晋作の語録より。一次史料未確認(要注意)。

「時間は取り戻せない。だからこそ一瞬一瞬を大切にしろ。」

出典:伝・高杉晋作の語録より。一次史料未確認(要注意)。

「成功とは、何度倒れても立ち上がることだ。」

出典:伝・高杉晋作の発言より。一次史料未確認(要注意)。

「自分を磨くことを怠るな。学びに終わりはない。」

出典:伝・高杉晋作の語録より。一次史料未確認(要注意)。

「人生は一度きり。後悔のないように生きろ。」

出典:伝・高杉晋作の語録より。一次史料未確認(要注意)。

高杉晋作のよくある質問

高杉晋作の最も有名な名言は?

最も有名なのは辞世の上の句「おもしろき こともなき世を おもしろく」(下の句「すみなすものは 心なりけり」は野村望東尼が継いだとされる)です。1867年に27歳で病没する直前に詠まれ、外的環境ではなく心の持ち方が世界の見え方を決めるという晋作哲学を凝縮しています。

高杉晋作はどんな人物ですか?

高杉晋作(1839〜1867)は幕末長州藩の風雲児で、吉田松陰の松下村塾で学んだ後、奇兵隊を創設(1863年)、功山寺で挙兵(1864年)して長州藩論を倒幕に転換させ、第二次長州征討で幕府海軍を撃破した維新の志士です。1867年4月、肺結核のため27歳で没しました。

高杉晋作の名言の特徴は?

晋作の名言は、変革期に身を投じた当事者の肉声であることが特徴です。常識を疑う知性、身分を破る発想、少数で多数に立ち向かう胆力に裏打ちされており、辞世の歌や漢詩、俗謡まで多様な形式に「動」と「狂」の精神が貫かれています。

高杉晋作の名言は英語でも人気ですか?

はい、辞世の句や「動けば雷電の如く」などは英訳されて海外の幕末ファンや日本史研究者の間で引用されています。短い人生で大改革を成した点が、若くして変革を志す世界中の起業家やリーダーに共感を呼んでいます。

高杉晋作の名言を座右の銘にする人は多い?

非常に多いです。とくに「おもしろき こともなき世を おもしろく」は、起業家・経営者・スタートアップ関係者の座右の銘として頻繁に引用され、社内行動指針や創業者書簡に登場することも珍しくありません。

高杉晋作の名言から何が学べる?

前例や常識を疑う姿勢、身分や肩書を超えて人を結集する組織観、少数でも信念があれば局面を覆せるという行動哲学、そして死を見据えてなお「面白がる」生き方——変革期を生きるすべての人が手がかりにできる知恵が詰まっています。

名言の学校 編集部 日本語・英語・スペイン語・ポルトガル語の4言語で名言を検証・解説する多言語編集部。すべての名言は一次資料による出典確認を経て公開。