西郷隆盛の名言65選|『南洲翁遺訓』の格言・短い有名な言葉を出典付きで解説【西郷どん】

西郷隆盛(1828〜1877)は、薩摩藩出身の武士であり、明治維新の最大の功労者の一人である。大久保利通・木戸孝允とともに「維新の三傑」と称され、江戸城無血開城や廃藩置県など近代日本の基礎を築いた。西南戦争で新政府軍と対峙し、鹿児島の城山で自刃した。上野公園の銅像に象徴されるように、日本で最も愛される歴史上の人物の一人である。

1868年の江戸城無血開城に際し、西郷は勝海舟との会談で150万人の江戸市民を戦火から救った。この歴史的対談のエピソードでは、海舟が「江戸を焼けば日本の力が失われる」と説くと、西郷は「いちもしらず(すべてお任せします)」と一言で応じたとされる。敵方の言葉をたった一言で受け入れた度量の大きさは、「功ある者には禄を与えよ、徳ある者には地位を与えよ」という名言に通じる、功績よりも人徳を重んじた西郷の人間観を象徴している。

我が身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ

西郷隆盛 名言

西郷隆盛のエピソード

項目内容
生年月日1828年1月23日
死亡日1877年9月24日
死因自決
職業政治家、軍人
活動期間幕末から明治初期
主な功績明治維新の一翼を担い、新政府の成立に貢献。西南戦争の指導者として知られる
西郷隆盛の詳細

西郷隆盛(1828年1月23日 - 1877年9月24日)は、日本の幕末から明治初期にかけての政治家、武士(薩摩藩士)であり、明治維新の中心人物の一人です。彼の人生は、日本の近代化と変革の激動の時代を象徴しています。西郷の生涯は、薩摩藩の下級武士の家に生まれ、若い頃から藩の政治に関わり、幕末期の動乱に深く関与することになります。彼は尊王攘夷運動に影響を受け、外国の脅威に対抗するためには日本の統一と強化が必要であると考えました。西郷は坂本龍馬とともに薩長同盟の成立に大きな役割を果たし、この同盟は幕府に対抗する力となりました。また、勝海舟との間で江戸城の無血開城を交渉するなど、明治維新の平和的な進行に貢献しました。維新後、西郷は明治政府の要職に就き、版籍奉還や廃藩置県などの重要な政策を推進し、日本の近代国家への移行を支えました。しかし、政府内での意見の相違や、特に西南戦争における中央と地方の対立を巡る政策において、西郷は政府と対立する立場を取りました。この対立は、1877年の西南戦争へと繋がります。西郷は反乱を率いましたが、政府軍に敗れ、戦死しました。

薩長同盟の締結と大政奉還への影響

西郷隆盛は幕末の動乱期において薩摩藩と長州藩の間に薩長同盟を結ぶことに大きな役割を果たしました。この同盟は、徳川幕府に対抗するための重要な軍事同盟で、倒幕運動の一環として結ばれました。1866年に徳川幕府を武力倒幕するため軍事同盟で、中岡慎太郎が長州藩の桂小五郎を説得し、薩摩藩の西郷隆盛を坂本龍馬が説得した上で亀山社中が両者の問題を相互支援する形で取り持ち形になりました。その結果、犬猿の仲と言われていた薩摩藩と長州藩が同じ倒幕という道を歩み始めたきっかけにもなった同盟です。西郷隆盛は、当初、事態を静観していましたが、長州藩が危機的な状況に陥った時、薩摩藩は長州藩を支援することを決定しました。これは、坂本龍馬が提案したもので、薩摩藩が武器を購入し、それを長州藩に提供するというものでした。この提案により、長州藩は近代的な武器を入手することができ、幕府に対抗する力を得ることができました。薩長同盟は、幕末の日本における重要な出来事で、尊王攘夷派にとって大きな意義を持っていました。また、薩長同盟はその後の大政奉還にも影響を与えました。

坂本龍馬との関係

坂本龍馬との出会いはその後の日本の運命を大きく変えた出来事でした。1864年8月頃、西郷隆盛はすでに薩摩藩の顔役となっており、一方の坂本龍馬は勝海舟が設立した神戸海軍操練所の塾頭でした。この時、二人は勝海舟の紹介で出会い、その時の西郷隆盛の印象について、坂本龍馬は「釣鐘の例えると、小さく叩けば小さく響き、大きく叩けば大きく響く。もし馬鹿なら大きな馬鹿で、利口なら大きな利口だろうと思います」と評価しています。その後、坂本龍馬は寺田屋遭難事件で手に刀傷を負い、その治療のために薩摩藩の藩船で鹿児島へと向かいました。この時、西郷隆盛は坂本龍馬を匿い、その治療を支援しました。この出会いとその後の交流は、西郷隆盛と坂本龍馬が新しい日本を創るために必要な人物として互いに頼り合う関係を築くきっかけとなりました。特に、寺田屋遭難事件で坂本龍馬が襲撃を受けたことにより、西郷隆盛は薩摩藩が幕府の敵となり、薩長による武力倒幕に反対していた薩摩藩の保守派を説得するしかないと決意しました。これが、薩長同盟の成立という歴史的な出来事へと繋がっていきます。

坂本龍馬の名言ブログ

江戸城無血開城と勝海舟

1868年2月15日、東征大総督である西郷隆盛は京都を出発しました。当時、薩長両藩と会津藩との戦闘は、会津軍がオール徳川軍の一翼を担って江戸城の攻防戦に加わっていました。この戦いで徳川慶喜が降伏すれば、会津藩との戦闘もそれで終わる、会津藩の処分も慶喜の処分と一括で、ということであったであろう。その後、東征軍は3月12日と13日に池上本門寺、内藤新宿、板橋から江戸を包囲し、15日を総攻撃の日と決定しました。新政府の江戸総攻撃が迫っている中、勝海舟と山岡鉄舟が交渉をしようと計画を立てて、新政府と交渉するため奔走します。そして総攻撃が迫っている3月13日、西郷隆盛は山岡鉄舟の頑張りを見て、提示する7カ条にOKしてくれれば攻撃を中止しますという条件を提示します。しかし、山岡鉄舟はその内の1条「将軍・徳川慶喜を備前藩に預かりとすること」は断固拒否します。山岡鉄舟は西郷隆盛に「もし薩摩藩主をいきなり他の藩に預けるとなったら断固反対するだろ!」と問い詰めました。新政府は西郷隆盛の交渉を横目に順調に進んでいきます。そんな時新政府を戸惑わせるとんでもない事態が起きてしまいます。なんとイギリスが江戸総攻撃を中止しろと圧力をかけてきたのです。新政府はこの時ようやく江戸を攻撃したら日本は逆にとんでもないことになるということに気づいたのです。そして3月14日ついに幕府代表の勝海舟と新政府代表西郷隆盛が会談しました。新政府側の提案はなるべく徳川家に譲歩した内容でした。勝海舟はそれを受け入れました。勝海舟と西郷隆盛の交渉により、江戸城の無血開城が実現しました。これにより、人口150万人の大都市江戸での大規模な戦闘が回避され、多くの人々の命が救われました。

西南戦争と西郷隆盛の最後

西郷隆盛は、倒幕の指導者として、薩長同盟や戊辰戦争を遂行し、大久保利通・木戸孝允とともに、「維新の三傑」として高く評価されました。維新後は、新政府の参議・陸軍大将となりますが、征韓論を巡って大久保利通らと対立し、役職を辞任してしまいます。西郷は朝鮮侵略を行うことで国内の目を海外に向け反乱を防ぐことを主張しましたが、大久保利通らは国内改革を優先し、朝鮮への武力行使に反対しました。新政府との対立を深めた隆盛は、「西南戦争」で彼らと争うこととなるのです。西南戦争は征討軍(明治政府軍)と薩摩軍を合わせると、約130,000人もの人が戦闘に参加した大規模な乱でした。戦地は九州各地に及び、約半年の戦闘で両軍合わせて約13,000人の犠牲者を出しています。開戦から7か月、官軍死者6403人、薩軍死者6765人にのぼる最大の士族反乱は政府軍の勝利に終わり、西郷隆盛の切腹によって西南戦争は終結する事となりました。西南戦争が鎮圧されると、武力の限界性が明白となり、不平士族は自由民権運動へと合流していきました。武力での反抗として、特権を剥奪された士族の反乱が激しさを増しました。言論での反抗として、民衆参加の政治を求める自由民権運動が始まりました。

短い名言「功ある者には禄を与えよ、徳ある者には地位を与えよ」

功ある者には禄を与えよ、徳ある者には地位を与えよ

西郷隆盛 名言 「功禄徳地」

西郷隆盛の名言「功ある者には禄を与えよ、徳ある者には地位を与えよ」は、業績や成果を上げた者には報酬(禄)を与え、道徳的な資質や品格を持つ者には地位を与えるべきだという考えを表しています。この言葉は、リーダーシップや組織運営において重要な原則を示しています。

  • 功ある者には禄を与えよ具体的な成果や業績を上げた人には、その努力に見合った報酬を与えるべきという考えです。これにより、個々の努力や成果が正当に評価され、報われることでモチベーションが高まり、さらに努力を続ける原動力となります。
  • 徳ある者には地位を与えよ道徳的な資質やリーダーシップを持つ人には、相応の地位や役職を与えるべきだという考えです。徳のある人が組織のリーダーとなることで、公平で倫理的な判断が下され、組織全体が健全に運営されます。

類似する名言

「君子は義をもって上となり、小人は利をもって下となる」

孔子 名言

解説孔子は、道徳的な正しさ(義)を大切にする人こそが指導者にふさわしく、利己的な考え(利)に走る者は統治の座にふさわしくないと説いています。この言葉は、リーダーシップの本質が私利私欲ではなく、社会全体の正義と秩序を守ることにあるという考えを示しています。つまり、真に優れたリーダーは、自己の利益よりも道義を優先し、社会の規範を守る責任を負うべき存在であるということです。これは、現代の企業経営や政治の分野でも重要な指針となり得る教訓です。

「あなたが見たいと思う変化に、あなた自身がなりなさい」

ガンディー 名言

解説ガンディーは、社会を変えたいと願うなら、まず自分自身がその変革の象徴となるべきだと説いています。他人や環境の変化を期待するのではなく、自らが模範となり、行動を通じて周囲に影響を与えることが大切だという考えです。これは、リーダーシップにおいて最も重要なのは言葉ではなく、実践を通じて示す道徳的な姿勢であることを強調しています。

「最も優れた人々が統治することが正義であり、彼らが徳を持っているからこそ統治する権利がある」

アリストテレス 名言

解説アリストテレスは、統治者には高い知性や能力だけでなく、徳を備えた人間性が求められると述べています。権力を持つことが正当化されるのは、支配者が道徳的な模範となり、社会全体の利益を考えた行動を取る場合に限られるという考えです。この言葉は、リーダーが持つべき倫理観や責任の重さを強調し、道徳的な統治こそが組織や国家の繁栄につながることを示唆しています。

西郷隆盛の名言集

西郷隆盛の人生は苦難の連続だった。薩摩藩の政争に巻き込まれ、島津斉彬の死後は僧・月照と共に錦江湾に入水自殺を図った。月照は亡くなったが、西郷だけが奇跡的に助かった。その後、奄美大島と沖永良部島への二度の島流しを経験する。極寒の牢獄で過ごした日々が、西郷の精神をさらに鍛え上げた。「何度もつらく苦しい経験をしてこそ志は堅くなる」という言葉は、まさに西郷自身の壮絶な体験から生まれたものである。

名言1

何度も何度もつらく苦しい経験をしてこそ、人の志は初めて堅くなるのだ。
真の男は玉となって砕けることを本懐とし、志を曲げて瓦となって生き長らえることを恥とせよ。
我が家の遺訓。
それは子孫のために良い田を買わない、すなわち財産を残さないということだ。

名言2

過ちを改めるには、自分が間違いを犯したと自覚すれば、それでよい。
そのことをさっぱり思いすてて、ただちに一歩を踏み出すことが大事である。
過ちを犯したことを悔やんで、あれこれと取りつくろおうと心配するのは、たとえば茶碗を割って、そのかけらを集めて合わせてみるようなもので、何の役にも立たぬことである。

「敬天愛人」は西郷隆盛の生涯を貫く座右の銘である。天を敬い、人を愛する——この四文字に西郷の全思想が凝縮されている。西郷は維新後、新政府で陸軍大将・参議として要職に就いたが、質素な生活を貫き、給料の大半を若者の教育に費やした。鹿児島に私学校を設立し、次代を担う人材の育成に心血を注いだのである。権力や富に溺れることなく、天の道理に従って人を愛し続けた西郷の姿は、今も多くの日本人の理想像であり続けている。

名言3

人が踏み行うべき道は、この天地のおのずからなる道理であるから、学問の道は敬天愛人(天を敬い人を愛する)を目的とし、自分の修養には、つねに己れに克つことを心がけねばならない。
己れに克つための極意は、論語にある「意なし、必なし、固なし、我なし」(主観だけで判断しない。無理押しをしない。固執しない。我を通さない)ということだ。
総じて人は自分に克つことによって成功し、自分を愛することによって失敗するものだ。
歴史上の人物をみるがよい。
事業を始める人が、その事業の七、八割まではうまくやるのであるが、残りの二、三割を終りまで成し遂げる人の少ないのは、はじめはよく己れを慎んで、事を慎重にするから成功もし、名も世に知られるようになる。
しかし、成功して名も知られるようになると、いつの間にか自分を愛する心が起こり、恐れ慎むという心が緩み、驕り高ぶる気持ちが多くなり、成功したことを自惚れて、何でもできるという過信のもとに、出来の悪い仕事をしてついに失敗する。
これはすべて自ら招いた結果である。
だから、自分にうち克って、人が見ていないときも聞いていないときも、慎み戒めることが大切なのだ。

名言4

西洋の刑法は、もっぱら戒めることを目的とし、むごい扱いを避け、善良に導くことに心を注ぐことが深い。
だから獄中の罪人であっても、緩やかに取り扱い、教戒となるような書籍を与え、場合によっては親族や友人の面会も許すということだ。
西洋のこのような点は誠に文明だと感じるものだ。

名言5

物事に取り組む際、自分の思慮の浅さを心配することはない。
およそ思慮というものは、黙って座り、静かに思いをめぐらしているときにすべきことである。
そのようにすれば、有事のときには、十のうち八、九は実行されるものだ。
事件に遭遇して、はじめて考えてみても、それは寝ているときに夢の中で奇策やすばらしい思いつきを得たとしても、朝起きたときには、役に立たない妄想のたぐいが多いのと同じである。

名言6

会計出納はすべての制度の基礎である。
国家事業はこれによって成り立ち、国家運営の最も重要なことであるから、慎重にしなければならない。
そのあらましを申すならば、収入をはかって支出をおさえるという以外に手段はない。
年間の収入によってすべての計画を定め、会計を管理する者が一身をかけて定まりを守り、予算を超過させてはならない。
そうでなくして時勢にまかせ、制限を緩慢にし、支出に合わせて収入をはかるなら、結局国民に重税を課するほか手はなくなるであろう。
もしそうなれば、一時的に事業は進んだように見えても、国力は疲弊して救い難いことになるだろう。

名言7

策略は日常的にすることではない。
はかりごとをめぐらしてやったことは、あとから見ると善くないことがはっきりしていて、必ず後悔するものである。
ただ戦争において策略は必要なことであるが、日常的にはかりごとをやっていると、いざ戦いということになったとき、同じことはできないだろう。
蜀漢の丞相であった諸葛孔明は、日頃策略を用いなかったから、戦いのときに思いもよらないはかりごとを行うことができたのだ。
私はかつて東京を引き揚げたとき、弟(従道)に対して、私はこれまで少しもはかりごとをやったことがないから、跡は少しも濁ることはないだろう。
それだけはよく見ておくようにと言いおいたことがある。

名言8

人が踏み行うべき道を実践しようとする者は、偉業を尊ばないものである。
北宋の司馬温公(司馬光)は、寝床で語る言葉さえ、人にいえないようなことはないといわれた。
独りを慎むということの真意はいかなるものであるかわかるであろう。
人の意表をつくようなことをして、一時的にいい気分に浸るのは、未熟者のすることで、戒めなければならないことだ。

名言9

賢人がすべての役人を統轄し、政権が一つの方針に進み、国の体制が一つにまとまらなければ、たとえ有能な人物を登用し、自由に進言できるようにして、多くの人の考えを取り入れるにしても、どれを取捨するのか一定の方針がなくては、行うことは雑でまとまりがなく、とても成功どころではない。
昨日出された政府の命令が、今日には変更になるというようなことも、統轄するところが一つでなく、政治の方針が決まっていないからである。

1877年、西南戦争で新政府軍に追い詰められた西郷隆盛は、最後の地・鹿児島城山に立てこもった。政府軍の総攻撃が始まる朝、西郷は正装して山を下り、被弾した。「もうここでよか」と別府晋介に告げ、自刃した。享年49歳。維新最大の功臣が、自らが作った新政府と戦って果てるという悲劇は、日本人の心に深い傷と敬愛を刻んだ。死後、逆賊とされた西郷だが、明治22年に名誉を回復され、上野公園に銅像が建てられた。

名言10

節操を貫き、道義を重んじ、心清らかで恥を知る心を持つ。
これを失うようなことがあれば、決して国家を維持することはできない。
上に立つ者が下の者に対して自分の利益を争い求め、正しい道を忘れるとき、下の者もみなこれにならい、人の心は財欲にはしり、日に日に卑しく、節義廉恥の志を失い、親子兄弟の間ですら財産を争い互いに敵視するようになるのだ。
このようになったら何をもって国を維持することができようか。
徳川氏は将兵の勇猛な心を抑えて世を治めたが、今の時代は昔の戦国時代の勇将よりもっと勇猛な心を奮い起さなければ、世界のあらゆる国々と対峙することはできないのだ。
普仏戦争の際、フランスが三十万の兵と三ケ月の食糧を残して降伏したのは、あまりにそろばん勘定にくわしかったがためである。

西郷隆盛の名言集

名言11

大きなことでも、小さなことでも、道理にかなった正道を踏み、真心を尽くし、決して策略を用いてはならない。

名言12

自分の身を慎み、心を正して、君子の体を備えていても、事にあたって、正しく対処できない人は、木の人形と同じだ。 たとえば、突然数十人の来客があった場合、どんなにもてなしたいと思っても、前もって器具や調度の備えをしていなければ、ただおろおろと心配するだけで、もてなすことなどできはしない。 つねに備えをしておくなら、何人であろうとも、数に応じてもてなすことができよう。 だから、普段の準備が大事なのだといって次の古語を書いてくださった。 文は鉛と板のことをいうのではない。 必ず事を処する才がある。 武は剣と楯のことをいうのではない。 必ず敵をはかる智がある。 才智のあるところは一箇所のみなのだ。

名言13

普段から踏み行うべき道の実践を心がけていない人は、大事に直面すると狼狽し、正しく対処できないものだ。 たとえば、近所で火事が発生したとき、普段から心構えのできている者は動揺することなく、てきぱきとこれに対処することができる。 しかし、普段から心構えのできていない者は、ただ狼狽して、うまく処理することなどできない。 それと同じことで、普段から道の実践を心がけている人でなければ、大事に直面したとき、すぐれた対策はできない。 私は先年の戦い(戊辰戦争)の出陣の日、兵士に向かって自軍の備えが十分であるかどうか、ただ味方の目で見るのではなく、敵の心になって一つ突いて見よ、それこそ第一の備えであると指示したことがある。

名言14

昔から、主君と臣下が共に自分は完全だと思っているような世に、よい政治が行われたという例はない。 自分は完全な人間ではないと考えるからこそ、下々の言葉も聞き入れることができる。 自分が完全だと思っているとき、人からその非を指摘されるとすぐに怒るから、賢人や君子も、そのような人を助けようとはしないのである。

名言15

人間の知恵を開発するということは、愛国の心、忠孝の心を開くことなのだ。 国に尽くし、家のために勤めるという道が明らかであれば、すべての事業は前進するであろう。 耳で聞いたり、目で見たりする分野を開発しようとして、電信を架け、鉄道を敷き、蒸気機関車を造る。 こうして人の注目を集めても、どういうわけで電信、鉄道が必要なのかを考えもしないで、みだりに外国の盛大なことをうらやむ。 利害得失を議論することなく、家屋の作り方からオモチャに至るまで一々外国の真似をし、贅沢の風潮を助長する。 財産を浪費するならば、国力は衰え、人の心は浅はかで軽々しくなり、結局日本は破綻するよりほかないであろう。

名言16

漢学を勉強した者は、ますます漢書から道を学ぶのがよい。 人が踏み行うべき道は、この天地のおのずからなる道理であるから、東洋・西洋の区別はないのである。 もしも現在の万国対峙の形勢について知りたいと思うならば、漢書の「春秋左氏伝」を熟読し、さらに「孫子」で補えばよい。 当時の形勢も今の情勢とほとんど大差ないだろう。

名言17

人が踏み行うべき道を実践する者が、世間の人がこぞってそしっても決して不満をいわず、世間の人がこぞってほめても自分に満足しないのは、信念が厚いからである。 そのような人物になるには、唐の韓愈の書いた「伯夷頌」(忠義の士、伯夷・叔斉兄弟をほめ称えたもの)を熟読してしっかり身につけるべきである。

名言18

もうここらでよか

名言19

自分を愛する(甘やかす)ことは、最もよくないことである。 修業ができないのも、ことが成就できないのも、過ちを改めることができないのも、自分の功績を誇って驕り高ぶるのも、みな自分を愛することから生ずることであり、決して自分を甘やかす心を持ってはならない。

名言20

主君への忠義と親への孝行、他人にめぐみいつくしむという徳目の実践を促すことこそ、政治の基本である。 これは、未来永劫、世界のどこにおいても、不変かつ大事な道である。

西郷隆盛の名言集

名言21

世の中で、人からそしられたり誉められたりするといったことは、塵のように儚く消え去ってしまうものである。

名言22

小人は己を利せんと欲し、君子は民を利せんと欲す。 己を利する者は私、民を利する者は公なり。 公なる者は栄え、私なる者は亡ぶ。

名言23

税を軽くして国民生活を豊かにすれば、国力を養うことになる。 だから国が多くの課題を抱え、財政の不足で苦しくなったとしても、税の定まった制度をしっかり守り、政府や上層階級が損を我慢して、下層階級の人々を苦しめてはならない。

名言24

正しい道を踏み、国とともに倒れてもよいというほどの精神がなければ、外国との交際を成し遂げることはできない。 外国の強大なことに恐れをなし縮こまり、ただ円満に事を収めることを主として、自国の真意を曲げてまで、その国のいいなりになるのなら、軽蔑や侮りを受け、親しい交わりがかえって破れ、しまいにはその国に制圧されるに至るであろう。

名言25

広く諸外国の制度を取り入れ、文明開化をめざして進もうと思うならば、まず我が国の本体をよくわきまえ、道徳心を高めることに努め、そのうえで、徐々に外国の長所を取り入れるべきである。 ただみだりに模倣すると、国体は衰え、徳も廃れて、救いようがなくなってしまい、結局は外国の支配を受けるようなってしまうのである。

名言26

正論では革命をおこせない。 革命をおこすものは僻論である。

名言27

急速は事を破り、寧耐は事を成す。

名言28

命もいらぬ、名もいらぬ、官位も金もいらぬというような人物は処理に困るものである。 このような手に負えない人物でなければ、困難を共にして、国家の大業を成し遂げることはできない。 しかし、このような人物は普通の人の眼では見抜くことができぬと言われるので、それでは孟子が「仁という広い家に住み、礼という正しい位置に立ち、義という大道を歩む。もし、志を得て用いられたら民と共にその道を行い、志を得ないで用いられなければ、独りでその道を実践する。そういう人は、どんな富や身分もこれを汚すことはできないし、貧しく身分が低いことによって心がくじけることもない。力をもってもこれを屈服させることはできない」と言っていますが、このような人物がいま仰せられたような人物のことでしょうかと尋ねると、その通りだ、真に道を行う人でなければ、そのような姿にはならないものだと答えられた。

名言29

人を言いくるめて、陰でこそこそ事を企てる者は、たとえそれがうまくいったとしても、物事を見抜く力のある者から見れば、醜いことこの上もない。 人に提言するときは、公平かつ誠実でなければならない。 公平でなければ、すぐれた人の心をつかむことはできないものだ。

名言30

どんなに制度や方法を論議しても、その適任者がいなければうまく行われない。 その人あって初めてその方法が行われるのだから、人こそが第一の宝であって、自らがそういう立派な人物になろうとする心がけが大事なのだ。

西郷隆盛の名言集

名言31

国が辱めを受けるようなことがあったら、たとえ国が倒れようとも、正道を踏んで道義を尽くすのが政府本来の仕事である。 戦の一字を恐れ、政府本来の使命を果たさないのなら、商法支配所といった商いの元締めというようなもので、もはや政府ではなくなってしまうだろう。

名言32

人が踏み行うべき道を実践するのに、身分が尊いか卑しかなどといったことはまったく関係がないことだ。 昔、尭・舜(中国古代の伝説上の帝王)は国王として政治の一切を行っていたが、二人の本質というのは、正しい道を人々に教える教師である。 孔子は魯の国をはじめどこの国にも用いられず、何度も困難な苦しい目に遭い、身分の低いままに生涯を終えたが、三千人の子弟は、みな教えられた道を実践したのである。

名言33

自分に克つには、あらゆる事柄を前にして、はじめて自分に克とうとしても、そうやすやすとはできないものだ。 ふだんからその心がけを持って、自分に克てるようにしておかなければならない。

名言34

聖人や賢人になろうとする志がなく、昔の人が行った史実をみて、とてもこのようなことは自分にはできないというような心であったら、戦いを前に逃げるよりも、はるかに卑怯なことだ。 朱子(南宋の儒学者)も抜き身の刀を見て逃げる者はどうしようもないといわれた。 真心をもって聖人・賢人の書を読み、その行いの根底にある精神を、自分の心身で体験するような修業をしないで、ただ成人・賢人の言葉や行いを知ったところで何の役にも立たない。 私は今、人のいうことを聞くに、いかにもっともらしく論じても、その行いに精神が行き渡らず、ただ口先だけのことであるならば、少しも感心しない。 実際に行動する人を見ると、実に立派だと感じるのである。 聖人・賢人の書をむなしく知識として読むのであったら、たとえば人の剣術を傍観しているのと同じで、少しも身につかない。 身につかなければ、万一立ち合えと言われたら、逃げるよりほかないであろう。

名言35

文明というのは、道理にかなったことが広く行われることを褒め称えていう言葉であって、宮殿が荘厳であるとか、衣服がきらびやかだとかといった、外観の華やかさをいうものではない。 もし西洋が本当に文明の国ならば、未開の国に対しては、慈愛の心をもって接し、懇々と説きさとし、文明開化に導くはずであろう。 ところが、そうではなく、未開蒙昧の国に対するほど、むごく残忍なことをして、自分たちの利益のみをはかるのは明らかに野蛮である。

名言36

政治で特に大切なことは、教育文化を盛んにし、軍備を充実させ、農業を奨励するという三つである。 その他のさまざまな事柄は、すべてこの三つのものを実現するための手段である。 この三つのなかで、時勢によって優先順位が変わることもあろうが、この三つのものを後回しにして、それ以外のことを先にするということは、決してあってはならないことだ。

名言37

人が踏み行うべき道を実践する者には、困難な苦しいことはつきものであるから、どんな難しい場面に立っても、そのことがうまくいくかどうか、その身が生きるか死ぬかといったことなどどうでもいいことなのだ。 物事をなすには上手下手があり、物によってはよくできる人、あまりできない人もある。 そのことに動揺する人もあろうが、天の道を実践するという点では上手下手もなく、できないという人もないものなのだ。 だから、ひたすら道を行い、道を楽しみ、もし困難に遭い、それを乗り切ろうと思うならば、ますますその道を実践し楽しむという心を持つがいい。 私は若い時から、困難という困難に遭って来たので、今はどのようなことに出会っても動揺することはない。 それだけは幸せである。

名言38

この世の中で後の世でも信じ仰がれ、喜んで従おうとするものは、ただ一つ誠の心だけである。 昔から父の仇を討った人はたくさんいるが、その中でひとり曾我兄弟だけが、今になっても子どもや女性にいたるまで、知らないものがいないのは、多くの人にぬきんでて誠の心が厚いからである。 誠の心がないのに世間の人から誉められるのは偶然の幸運に過ぎない。 誠の心が厚ければ、たとえその当時に知る人がなくても、後の世に必ず理解してくれる人があらわれるものだ。

名言39

国民の上に立つ者は、いつも心を慎み、普段の行いを正しくし、驕りや贅沢を戒め、つつましくすることに努め、仕事に励んで人々の手本となり、国民がその仕事ぶりや生活を気の毒に思うくらいでなければ、政府の命令は行われにくい。 しかし今、維新創業の大事なときだというのに、家を贅沢にし、衣服をきらびやかにし、美しい妾を囲い、金を蓄えることを考えているならば、維新の理想を達成することはできないであろう。 今となっては、戊辰の正義の戦いも、ただ私利私欲を満たすための戦いとなり、世の中の人々に対し、また戦死者に対して面目ないことであると言って、西郷先生は涙を流された。

名言40

世間の人がいう機会とは、たいてい思いがけずに得た幸運のことを指している。 しかし、真の機会というのは道理に適い、時の勢いを正しく把握して行動する場合のことだ。 かねて天下国家を憂える真心が厚くないのに、ただ時の弾みに乗って成功した事業は、決して長続きはしないものだ。

西郷隆盛の名言集

名言41

人を相手にせず、天を相手にせよ。 天を相手にして、自分の誠を尽くし、人を咎めたりせず、自分の真心が不足していることを認識すべきなのだ。

名言42

学問を志す者は、広く学ぶという心がけが必要である。 しかし、ただそのことのみに偏ってしまうと、身を修めることがおろそかになっていくから、常に自分に克ち、身を修めることが大事である。 広く学び、同時に自分に克ち、男というものは、どんな人でも受け入れるくらいの度量が必要で、人から呑まれてしまってはいけない。 古語にも次のようにあろう。 物事を成そうとの意気込みを広く持つ者にとって、もっとも憂えるべきことは自分のことをのみはかり、けちで低俗な生活に安んじ、昔の人を手本として、自分からそうなろうと修業をしないことだ。 では、その古人を目標にするというのはどういうことですかと教えを請うと、徳をもって天下を治めた尭・舜(中国古代の伝説上の帝王)を理想とし、孔子を教師とすることだと答えられた。

名言43

人材を採用するとき、君子(徳行の備わった人)と小人(徳のない人)との区別を厳格にし過ぎると、かえって害を引き起こすものである。 というのは、世の中で十人のうち七、八人までは小人であるから、よくこのような小人の長所をとり入れ、これを下役に用い、その力を発揮させるのがよい。

名言44

人が踏み行うべき道は、この天地のおのずからなる道理であり、人はこれにのっとって実践すべきものであるから、何よりもまず、天を敬うことを目的とすべきである。 天は他人も自分も区別なく愛されるものであるから、自分を愛する心をもって他人をも愛することが肝要である。

名言45

今の人は、才能や知識があれば、事業というのは思いのままにできると思っているが、才能にまかせて行うことは、危なっかしくて見ておられない。 しっかりした内容があってこそ物事は立派に行われるものだ。 肥後の長岡先生(熊本藩家老の長岡監物)のような君子は、今は似ている人ですら見ることができなくなった、と嘆かれて次の古語を書いて与えられた。 天下は、誠にあらざれば動かず、才にあらざれば治まらず。 誠の至る者その動くや早し。 才のあまねき者その治むるや広し。 才と誠と合して、しかる後事なるべし。

名言46

過去の功績のご褒美として役職につけるのは、善くないことの第一である。 功績のある人には俸給をあたえて賞し、役職はそれにふさわしい人物にあたえよ。

名言47

常備する兵数についても、会計の制限の中で対処すべきで、虚勢を張ってむやみに兵隊を増やすことなど決してしてはいけない。 兵士の心を奮い立たせて、すぐれた軍隊をつくりあげれば、たとえ兵の数は少なくても、外国との折衝は堂々として、あなどりを受けるようなことはないであろう。

名言48

思い切ってやりなさい。 責任は私がとる。

名言49

徳に勤むる者は、これを求めずして、財自から生ず。

名言50

西郷先生に従って、犬を走らせて兎を追い、山谷をめぐり歩いて終日狩りをして過ごし、一軒の農家に宿を借り、風呂から上がって、爽快きわまりないといったご様子で、ゆったりと、君子の心はつねにこのようにさわやかなものであろうと思う、と言われた。

西郷隆盛の功績とエピソード

江戸無血開城——勝海舟との歴史的会談

1868年3月、西郷は新政府軍の代表として勝海舟と会談し、江戸城の無血開城に合意した。総攻撃を中止するこの決断により100万人の江戸市民は戦火を免れた。敵将の器量を認め大局的判断を下した西郷の度量は「大西郷」と称えられた。

二度の島流しから復活した不屈の精神

西郷は薩摩藩の内紛により1858年と1862年の二度にわたり島流しにされた。奄美大島と沖永良部島での約5年間の流罪生活を経験したが、その間も志を失わず学問と鍛錬を続けた。この試練が西郷の人格をさらに大きくした。

西南戦争——「もうここでよか」と語った最期

1877年、西郷は不平士族に担がれて西南戦争を起こしたが政府軍に敗北した。鹿児島の城山で最後の戦いに臨み、被弾した後「もうここでよか」と語り自決した。明治政府に反旗を翻した逆賊でありながら、日本人に最も愛される偉人の一人である。

西郷隆盛の名言(追加)

の名言「過ちを改むるに、自ら過ったとさえ思い定めたら、それでよい。そのことをば棄てて、ただちに一歩踏み出すべし。」

"過ちを改むるに、自ら過ったとさえ思い定めたら、それでよい。そのことをば棄てて、ただちに一歩踏み出すべし。"

『南洲翁遺訓』より

"徳高き者には高き位を、功績多き者には報奨を。"

西郷隆盛の言葉

"世の人はよし悪しごとも言はばいへ 賤が誠は神ぞ知るらむ。"

西郷隆盛の歌

"国の大本は教育にあり。"

西郷隆盛の言葉

「急速は事を破り、寧耐は事を成す。」

出典:『南洲翁遺訓』第二十七条

『南洲翁遺訓』に学ぶ西郷隆盛の名言・格言

『南洲翁遺訓』は西郷隆盛の思想を旧庄内藩士が記録し、明治23年(1890年)に刊行された全41条の訓示集である。「敬天愛人」の思想が凝縮された本書は、維新の三傑の中でも特に西郷の人間観・政治観を後世に伝える最重要資料となっている。

「敬天愛人」——西郷南洲思想の核心

「道は天地自然の物にして、人は之を行うものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給うゆえ、我を愛する心をもって人を愛するなり。」

出典:『南洲翁遺訓』第二十四条(敬天愛人の思想)

「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己を尽くし、人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし。」

出典:『南洲翁遺訓』第二十五条

命も名も金もいらぬ人——西郷の人物論

「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るもの也。此の始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。」

出典:『南洲翁遺訓』第三十条

西郷隆盛の短い名言・有名な言葉

西郷隆盛(西郷南洲)の言葉には、短くても重みのある格言が数多く遺されている。薩摩藩士として生き、明治維新を成し遂げた西郷どんの言葉は、現代でも座右の銘として愛されている。

「児孫のために美田を買わず。」

出典:西郷隆盛の漢詩「偶成」(明治維新後の座右の銘として知られる)

「敬天愛人。」

出典:西郷隆盛の座右の銘(『南洲翁遺訓』全編に貫かれる思想)

「功ある者には禄を与えよ、徳ある者には地位を与えよ。」

出典:『南洲翁遺訓』第六条(人材登用論)

江戸無血開城と西郷隆盛のリーダーシップ

1868年、西郷は勝海舟との会談で江戸城の無血開城を決断し、100万人の江戸市民を戦火から救った。この決断力と大局観は、西郷の名言群の中でも特に重要なエピソードとして語り継がれている。

「人を疑うよりは、己の誠実さに頼るがよい。」

出典:『南洲翁遺訓』第二十五条

「正道を踏み、国を以て斃るるの精神無くば、外国交際は全かる可からず。」

出典:『南洲翁遺訓』第七条(外交論)

西南戦争と城山の最期に刻まれた言葉

1877年の西南戦争で敗れ、鹿児島の城山で自刃した西郷。不平士族に担がれた最後の戦いの中でも、西郷の言葉には悠然たる武士道精神が宿っていた。

「晋どん、もうここらでよか。」

出典:城山決戦の最期、別府晋介に自決を促した最後の言葉(1877年9月24日)

「ただ願わくは、名利を追わず、ただ正義に殉ぜんのみ。」

出典:西南戦争前の書簡より(1877年)

西郷隆盛の名言に関するFAQ

Q1. 西郷隆盛の座右の銘「敬天愛人」とはどういう意味ですか?

「敬天愛人」とは「天を敬い、人を愛する」という意味で、西郷隆盛の思想の核心を示す言葉です。『南洲翁遺訓』第二十四条に記されており、天の道に従って私心を捨て、天が平等に愛する人々を自分も愛するという意味です。稲盛和夫(京セラ創業者)もこの言葉を座右の銘としていました。

Q2. 『南洲翁遺訓』は誰が書いたのですか?

『南洲翁遺訓』は西郷隆盛自身が書いたものではなく、旧庄内藩士の菅実秀らが西郷から直接聞いた教えを記録し、西南戦争後の明治23年(1890年)に刊行したものです。全41条から成り、戊辰戦争で敵対した庄内藩に対して西郷が寛大な処置を取ったことへの感謝から、庄内藩士たちが西郷の思想を後世に残そうと編纂しました。

Q3. 「児孫のために美田を買わず」とはどういう意味ですか?

「子孫のために財産を残さない」という意味で、西郷の漢詩「偶成」に由来します。財産を残すと子孫が堕落するという戒めで、自らを律する西郷の清貧思想を表します。明治維新の最大の功労者でありながら、西郷は私財を蓄えず、質素な生活を貫きました。

Q4. 西郷隆盛の「功ある者には禄を」という名言の意味は?

『南洲翁遺訓』第六条の言葉で、「業績を上げた者には報酬(禄)を与え、人徳のある者には地位を与えよ」という意味です。功績と人徳を区別する人材登用論として、現代の経営やマネジメントでも引用される重要な教えです。

Q5. 西郷隆盛の有名な短い名言にはどんなものがありますか?

代表的な短い名言には「敬天愛人」「児孫のために美田を買わず」「己を尽くし人を咎めず」「晋どん、もうここらでよか」などがあります。いずれも『南洲翁遺訓』や書簡、最期の言葉として伝わっており、簡潔でありながら西郷の人生観が凝縮されています。

Q6. 西郷隆盛(西郷どん)はなぜ西南戦争を起こしたのですか?

1873年の征韓論争で大久保利通と対立し下野した西郷は、鹿児島に私学校を設立しました。明治政府への不平を持つ旧薩摩藩士たちに担ぎ上げられる形で1877年に西南戦争を起こしましたが、当初から勝ち目はないことを悟っていたとされます。9月24日、鹿児島の城山で最期を迎え、享年49歳でした。

よくある質問

西郷隆盛の最も有名な名言は?

本記事で紹介している代表的な名言の一つが「過ちを改むるに、自ら過ったとさえ思い定めたら、それでよい。そのことをば棄てて、ただちに一歩踏み出すべし。」です。西郷隆盛の人生哲学を端的に表す言葉として読者に親しまれており、その背景には本人の経験や思想が色濃く反映されています。

西郷隆盛はどんな人物ですか?

西郷隆盛(1828〜1877)は、薩摩藩出身の武士であり、明治維新の最大の功労者の一人である。大久保利通・木戸孝允とともに「維新の三傑」と称され、江戸城無血開城や廃藩置県など近代日本の基礎を築いた。

西郷隆盛の名言の特徴は?

「徳高き者には高き位を、功績多き者には報奨を。」のように、人間や人生への深い洞察を表す言葉が数多く残されています。本記事には4を超える名言を収録しており、いずれも西郷隆盛の生き様や信念を反映した重みのある言葉ばかりです。

西郷隆盛の名言から何が学べますか?

「世の人はよし悪しごとも言はばいへ 賤が誠は神ぞ知るらむ。」のような言葉から、困難に立ち向かう姿勢や人生に対する向き合い方を学ぶことができます。西郷隆盛の言葉は、自分の生き方を見つめ直したいときや、新たな一歩を踏み出したいときの指針として多くの人の心の支えになっています。

名言の学校 編集部 日本語・英語・スペイン語・ポルトガル語の4言語で名言を検証・解説する多言語編集部。すべての名言は一次資料による出典確認を経て公開。