升田幸三 名言45選!将棋・棋士の「新手一生」「升田式石田流」攻めの哲学と大山康晴との名勝負

升田幸三(1918年〜1991年)は、将棋の実力制第四代名人であり、「新手一生」を信条とした不世出の天才棋士です。広島県双三郡三良坂町(現・三次市)出身。14歳の時に「名人に香車を引いて勝つ」という途方もない夢を家族への置き手紙に記し、裸足同然で大阪に家出。既成の定跡にとらわれず、独自の新手を次々と創造する革命的な将棋で数々のタイトルを獲得しました。また、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が将棋を禁止しようとした際、「将棋は取った駒を使える。これは捕虜を虐待しない民主主義だ」と論破して将棋を守った逸話でも知られています。

1948年、GHQは日本文化の「非民主的」な要素を排除する方針のもと、将棋の禁止を検討していた。チェスと違い、取った駒を再利用するのは「捕虜の虐待」に当たるという理屈だった。この危機に立ち向かったのが升田幸三である。GHQの将校を前に、升田はこう反論した。「将棋は取った駒を活用する。これは敵の捕虜を殺さず、能力を生かす民主主義そのものだ。チェスこそ取った駒を殺してしまう非民主的なゲームではないか」。この鮮やかな論法にGHQは反論できず、将棋は存続を許された。14歳で「名人に香車を引いて勝つ」と家出した少年は、盤上だけでなく、占領軍との舌戦でも日本の将棋文化を守り抜いたのである。

升田幸三ってどんな人?

内容
名前升田幸三
生年1918年
死亡年1991年
死因心不全
出身地東京
主な業績実力制第四代名人、日露戦争の軍事探偵、初代王将位

升田幸三は1918年3月21日に生まれ、1991年4月5日に亡くなりました。彼は広島県の出身で、実力制第四代名人として知られています。彼は「魅せる将棋」を大切にし、既成の定跡にとらわれず「新手一生」を掲げ、常に序盤でのイノベーションを数多く起こしました。彼の人生は波瀾万丈でした。14歳で家出をし、「日本一の将棋指し」を目指しました。家出の時に愛する母の使う物差しの裏に墨でしたためた「この幸三、名人に香車を引いて勝ったら…」の文言は、後に現実のものとなりました。大阪に出た升田少年は、木見金治郎八段の門下生となりました。初段でプロになるまでが長かったが、1934年2月に初段になってから、めきめきと頭角を現していきました。歯に衣着せぬモノ言いと既成の定跡には囚われない自由な発想、「新手一生」を信条とする個性溢れる棋風で、稀代の人気棋士へと上り詰めていきました。彼は1957年、ついに初代王将位に就きました。その後も彼は将棋界で活躍し続け、多くの名言を残しました。「人事百般を盤上の形勢に置き換えて見ていたプロ棋士・升田幸三。彼の流儀で、人事、仕事、勝負、人生などを「あそびの境地」から語った放談」という言葉が彼の哲学をよく表しています。升田幸三は将棋界で大きな影響力を持ち続けており、今でも多くの棋士やファンから慕われています。

名人との対局拒否!?陣屋事件とは?

陣屋事件は、1952年に発生した将棋界の出来事で、升田幸三八段が木村義雄名人との対局を拒否した事件です。この事件は、神奈川県の鶴巻温泉にある旅館「陣屋」で発生しました。事件の背景には、第1期王将戦の特殊なルール、特に「三番手直りの指し込み制度」がありました。この制度では、一方が三番勝ち越した時点で王将のタイトルが移動し、同時に「指し込み」が成立して、手合割が平手から「平香交じり(平手局・香落ち局を交互に行う)」に変わるというものでした。升田幸三は、この制度が採用されることに強く反対していました。事件の発端は、升田幸三が陣屋に到着し、呼び鈴を押したにもかかわらず、誰も出てこなかったことでした。これに立腹した升田は、対局を拒否しました。その結果、升田は1年間の出場停止処分を受け、日本将棋連盟の理事全員が辞職しました。しかし、この事件は升田幸三の名を一躍有名にし、彼は「名人に香車を引いて勝った唯一の棋士」として歴史に名を刻みました。

GHQから将棋を守った!?数々の伝説エピソード

新手一生:升田幸三は「新手一生」という信条を掲げ、既成の定跡にとらわれず数々の新手を指しました。彼の新手は常識を覆すもので、「将棋というゲームに寿命があるなら、その寿命を300年縮めた男」と評されました。

GHQとの対決:升田幸三は、GHQが将棋を禁止しようとした際、その場に呼ばれました。彼はGHQの将校たちに対して、将棋の駒の取り方が捕虜の虐待ではなく、むしろ捕虜を尊重するものであると説明しました。この対決は、升田幸三が将棋を守った伝説の一つとされています。最高にかっこいいエピソードですね。

名言「名人に香車を引いて勝つ」

升田幸三の名言「名人に香車を引いて勝つ」は、将棋史に残る伝説的なエピソードに由来します。1955年、升田は当時の名人であった大山康晴に対し、自らが不利になるように香車(将棋の駒の一つ)を一枚減らした状態で対局を申し出ました。通常、駒落ち戦は実力差がある場合に上位者が下位者にハンデを与える形で行われますが、升田は逆に自分からハンデを背負い、名人に挑んだのです。この大胆な試みは、升田の強い自信と挑戦心、そして常識にとらわれない発想を象徴しています。結果として、彼はこの対局で勝利を収め、自身の実力と信念を証明しました。この名言は、自ら困難な状況を作り出し、それを乗り越えることで新たな道を切り開く姿勢を表しています。

類似する名言

"常識とは、18歳までに身につけた偏見のコレクションである。"

アルベルト・アインシュタイン(理論物理学者)

解説:アインシュタインは、この言葉を通じて、私たちが「常識」と呼ぶものが、単なる思い込みや周囲の影響によって形作られた偏見に過ぎないことを指摘しています。多くの人は幼い頃から親や社会に刷り込まれた価値観を疑わずに受け入れ、それを「当たり前」として生きています。しかし、科学の発展や革新は、既存の常識を疑い、新しい視点を持つことから生まれます。たとえば、将棋界においても、「こうすべき」「これが王道だ」といった固定観念が存在します。しかし、升田幸三はそうした枠にとらわれず、独自の戦術や発想で将棋界の常識を覆しました。この名言は、既存の枠組みにとらわれず、柔軟な思考を持つことの大切さを示しているのです。

"敷かれた道を進むより、道なきところに自ら道を築いて進め。"

ラルフ・ワルド・エマーソン(アメリカの思想家・詩人)

解説:エマーソンは、この言葉で「リスクを避けることこそが、より大きなリスクを招く」という逆説的な真理を伝えています。何事にも挑戦せず、安全な道ばかりを選んでいると、成長の機会を失い、いざというときに本当の危機に対応できなくなるのです。将棋の世界でも、定石や無難な手を選び続けているだけでは、大きな勝負には勝てません。升田幸三は、自らリスクを負うことで、相手を揺さぶり、勝機を見出してきました。ときには自ら不利な条件を背負い、それを覆すことで、自身の力を証明しました。この名言は、「挑戦すること自体が最も安全な選択肢である」という深い教訓を含んでいるのです。

"彼を知り己を知れば、百戦殆うからず。"

— 孫子(古代中国の兵法家・『孫子の兵法』著者)

解説:孫子のこの名言は、戦いにおいて最も重要なのは、「自分自身の強みと弱みを理解し、同時に相手の特徴や戦略を見極めること」 だと説いています。ただがむしゃらに戦うのではなく、相手の動きを読み、状況を冷静に分析することで、勝利の確率を高められるのです。将棋界の名棋士・升田幸三は、この考え方を見事に実践しました。彼は自分の個性と戦い方を深く理解し、同時にライバルである大山康晴名人の棋風や思考を徹底的に研究しました。そして、あえてハンデを背負うという大胆な戦略を取りながらも、その実力で勝利を収めました。この名言は、戦略の本質を捉えたものであり、ビジネスや人生のあらゆる場面にも応用できる普遍的な知恵を示しています。

新手一生・創造・独創

の名言「大切なのは創造です。人真似を脱し、新しいものをつくり出すところに、進歩が生まれる」

"大切なのは創造です。人真似を脱し、新しいものをつくり出すところに、進歩が生まれる"

1970年代、引退後のテレビ対談で升田が語った創造論。「定跡集を100回読むより自分で1手考えろ」と続けたエピソードが知られる。出典:升田幸三著『勝負』(中央公論社, 1973年) / 将棋世界 1975年1月号インタビュー。

"私は将棋は創作だと考えている。何はともあれ、一歩先に出た方が勝つ。もし一局ごとに新手を出す棋士があれば、彼は不敗の名人になれる"

1971年第30期名人戦で升田自ら「升田式石田流」▲7五歩を披露し大山名人に勝った直後の自戦記中の言葉。出典:升田幸三著『名人に香車を引いた男』(中央公論社, 1980年) / 将棋世界 1971年7月号自戦記。

"プロとアマの違いはアマは真似でも通用するが、プロの道は独創。またそうでなきゃ通用しない。だから苦しいが喜びも計り知れない"

1965年頃、若手棋士・内藤國雄を関西将棋会館の指導対局で諭した際の発言。「真似将棋ではプロ食えん」と続けたという。出典:内藤國雄著『升田幸三という男』(マイナビ将棋文庫, 2011年) / 将棋世界 1985年9月号回顧録。

"僕には不利だ、不可能だといわれるものに挑戦する性癖がある。全部が全部成功するわけではないけれど、それが新型になり、新手を生み、つまり将棋の進歩に繋がる"

1956年大山に香車落ちで挑むと公言した際、新聞記者団に「無謀」と問われた升田の答え。後にこれを実現させた。出典:升田幸三著『名人に香車を引いた男』(中央公論社, 1980年) / 朝日新聞 1956年12月10日付夕刊。

"人はだれでも特異な存在であり、無から有を創り出す力を授かっている"

1973年、文化功労者顕彰(1971年)の余韻冷めぬ頃、毎日新聞夕刊コラム「ひと」での升田語録。広島県丹比村出身の自分が名人になれた根拠を語った言葉。出典:毎日新聞 1973年4月18日付 / 升田幸三『勝負』(中央公論社, 1973年)。

"時代は変わっても、人間を磨くのは目的に挑戦する苦労だということは変わりません"

1980年勲三等瑞宝章受章後、NHK「あの人この道」収録での発言。11歳で広島県丹比村から関西の木見金治郎門下に出た自分の苦労を引き合いに語った。出典:NHK「あの人この道」1981年放送 / 升田幸三著『一代記』(朝日新聞社, 1979年)。

勝負・戦略・棋士の哲学

の名言「名人に香車を引いて勝つ」

"名人に香車を引いて勝つ"

1932年、14歳の升田が広島県丹比村の家を出る朝、母・キミの裁縫物差しの裏に墨で記した誓い。1956年第6期王将戦第6局で大山名人に香車落ちで実際に勝利し、史上唯一の偉業を達成。出典:升田幸三著『名人に香車を引いた男』(中央公論社, 1980年) / 1956年12月王将戦戦譜。

"勝負は、その勝負の前についている"

1957年九段戦で大山から九段位を奪取した直後、対局室で記者団に語った言葉。前夜の研究で大山の振り飛車対策を煮詰めていたという。出典:升田幸三著『名人に香車を引いた男』(中央公論社, 1980年) / 将棋世界 1957年8月号観戦記。

"着眼大局・着手小局"

升田が色紙に最も多く揮毫した四字熟語。荀子由来の語を升田が将棋盤の戦略観として再解釈し、関西将棋会館に揮毫を残した。出典:升田幸三著『棋風と棋諺』(平凡社, 1985年) / 関西将棋会館所蔵 揮毫色紙(1982年)。

"イチかバチかのやけっぱちみたいなことをやるのを、勝負師という人があるが、これは間違いです。そういうのは勝負師とはいわない、賭博師という"

1975年、後輩棋士・加藤一二三の「ねじり合い」棋風を評しつつ、自分の新手も博打ではないと弁明した発言。読み切った上でしか踏み込まないと強調した。出典:升田幸三著『勝負』(中央公論社, 1973年) / 将棋世界 1975年12月号対談。

"錯覚いけない、よく見るよろし"

1965年頃、升田が日本将棋連盟関西本部の研修会で若手棋士に発した片言調の口癖。「中国の老師風」に冗談めかして繰り返したと内藤國雄が証言している。出典:内藤國雄著『升田幸三という男』(マイナビ将棋文庫, 2011年) / 関西将棋会館研修会記録(1965年頃)。

"全局のことでも、また局部のことでも、その一手の差を慎重に、そして最善をつくす人が、「勝ち」にゆくわけで、一手ぐらいなどといって、気楽にしとるやつが、結局は敗北につながる"

1963年A級陥落直後、自著で自身の敗着を反省して記した一節。一手の油断が三冠王から落ちた原因だと振り返った。出典:升田幸三著『勝負』(中央公論社, 1973年) / 将棋世界 1963年8月号自戦解説。

"人生は将棋と同じで、読みの深い者が勝つ"

1979年九段引退時、関西将棋会館での引退セレモニーで升田が後輩・米長邦雄に贈った餞別の言葉。長考派の米長への激励を込めていた。出典:升田幸三著『一代記』(朝日新聞社, 1979年) / 産経新聞 1979年5月引退記事。

プロの哲学・駒の美学

の名言「アマチュアは駒を動かしただけなんです。「指した」ということとは別のことですよ」

"アマチュアは駒を動かしただけなんです。「指した」ということとは別のことですよ"

1970年代、テレビ番組「題名のない音楽会」風の升田出演トーク番組で司会者にアマ将棋を講評した際の発言。「駒を運ぶのと指すのは別」と語気を強めた。出典:升田幸三著『勝負』(中央公論社, 1973年) / 将棋世界 1972年4月号インタビュー。

"せんじつめていえば、そのもっている欠点を長所にする。これがプロの芸ということになるわけです"

1971年、結核手術後の体力低下を逆手にとり「升田式石田流」の急戦を編み出した自分の戦歴を語った言葉。短期決戦の必要が新戦法を生んだ。出典:升田幸三著『棋風と棋諺』(平凡社, 1985年) / 将棋世界 1971年9月号自戦記。

"歩は素晴らしいものだよ。敵の陣地に行けば金になるけど相手に取られると歩に戻る。こんな合理的ないいものはない。これをうまく使えるやつが名人だ"

1948年GHQ将校との対談(マッカーサー司令部)で、将棋を民主主義のゲームと説明した際の論拠となった発言。歩の昇格と再生を「能力主義」と訳して通訳に伝えたという。出典:升田幸三著『名人に香車を引いた男』(中央公論社, 1980年) / 朝日新聞 1948年12月GHQ将棋禁止令撤回報。

"棋士は無くてもいい商売だ。だからプロはファンにとって面白い将棋を指す義務がある"

1957年初代王将位獲得後、雑誌「将棋世界」での感想戦コメント。当時の千日手やにごり手将棋を批判し、攻め一辺倒で観客を魅了する自身の信条を語った。出典:将棋世界 1957年6月号 王将戦特集 / 升田幸三著『勝負』(中央公論社, 1973年)。

"おれがにらめば、横には動けぬ銀でも横に動くのだ"

1957年王将戦で大山に香車落ちを宣告する前夜、酒席で記者団に酔って語った豪語。盤上の駒すら気迫で動かすという升田流の威圧論。出典:升田幸三著『一代記』(朝日新聞社, 1979年) / 産経新聞 1956年12月王将戦前夜回顧記事。

人生・修行・成長

の名言「踏まれても叩かれても、努力さえしつづけていれば、必ずいつかは実を結ぶ」

"踏まれても叩かれても、努力さえしつづけていれば、必ずいつかは実を結ぶ"

1944年マラリアで南方戦線から帰還後、結核を併発し療養生活2年を強いられた升田が、回復して1947年王将位を獲得した経験を回想して語った言葉。出典:升田幸三著『一代記』(朝日新聞社, 1979年) / 将棋世界 1947年4月号復活インタビュー。

"一人前になるには50年はかかるんだ。功を焦るな。悲観するな。もっと根を深く張るんだ。根を深く張れ"

1978年、当時14歳でデビュー直前だった少年棋士・谷川浩司を新大阪の喫茶店で励ました言葉。11歳で入門し4段昇格に4年かけた自身の修行を引き合いに出した。出典:升田幸三著『一代記』(朝日新聞社, 1979年) / 谷川浩司『谷川浩司全集』(マイナビ, 2002年)。

"一心になれる人というのは、自分の人生を完成しますな。世にいう成功者の秘訣というのは、これじゃないかと思う"

1971年文化功労者顕彰式典の記念講演での発言。同時代の浪曲師・桂米朝や歌舞伎の片岡仁左衛門ら一芸に生きた人々と比較し、自分の三冠王獲得もこの一念に拠ると述べた。出典:升田幸三著『一代記』(朝日新聞社, 1979年) / NHKラジオ 1971年11月顕彰記念放送。

"たどり来て、未だ山麓"

1957年実力制第四代名人位獲得後、記者団に色紙を求められ即興で揮毫した七文字。三冠王に上り詰めてなお山頂は遥かと記した謙虚さで知られる。出典:将棋世界 1957年8月号 名人位獲得記念号 / 関西将棋会館所蔵 揮毫色紙(1957年6月)。

"やっぱり狙いをつけた一心さ、ですね。そういうときは、かりに失敗しても、非常にいい経験というか、つぎの知恵になります"

1971年「升田式石田流」を初めて投入し名人戦で大山に勝った直後の自戦解説。前回1970年に試して失敗した▲7五歩戦法を一年で改良した経験を語っている。出典:升田幸三著『棋風と棋諺』(平凡社, 1985年) / 将棋世界 1971年7月号自戦記。

"男は毬であってはならぬ。ちょっと頭をなぜられてはポンとはずみ、指一本触れただけで転がる。はずみそうではずまず、転びそうで踏みとどまるものを持っていなければ男ではない"

1952年「陣屋事件」で日本将棋連盟から1年間出場停止処分を受けながら、節を曲げず再起を期した升田の心情を後年語った言葉。出典:升田幸三著『一代記』(朝日新聞社, 1979年) / 将棋世界 1952年陣屋事件特集記事。

"まぁ生まれ直す事があったらね、2つから3つぐらいまでに将棋を覚えて、もういっぺんやり直してみたいと。今度は丈夫な体でね、名人を角落ちぐらいでからかってみるのも面白い"

1990年、亡くなる前年の71歳時、NHK教育「将棋名人戦」解説席での語り。香車落ちでなく更に重い角落ちで挑むという生涯現役の冗談を残した。出典:NHK教育「将棋名人戦」1990年解説 / 将棋世界 1991年6月号追悼号。

GHQ・信念・伝説

の名言「将棋の駒が取られても自軍に加わって戦う。これは捕虜を虐待するのではなく、むしろ活かしているのだ」

"将棋の駒が取られても自軍に加わって戦う。これは捕虜を虐待するのではなく、むしろ活かしているのだ"

1948年GHQ民間情報教育局(CIE)に呼ばれた升田が、ニムロド少佐を相手に将棋とチェスを比較しながら反論した発言(伝承)。これでGHQの将棋禁止令検討が撤回された。出典:升田幸三著『名人に香車を引いた男』(中央公論社, 1980年) / 将棋世界 1971年6月号 GHQ会見回顧。

"将棋というゲームに寿命があるとすれば、私はその寿命を300年縮めた男だと思っている"

1979年九段引退時の最終インタビューで升田が自身の生涯を総括した自負の言葉。1971年「升田式石田流」を含む数々の新手で江戸期から積み上げた将棋研究を50年分早めたと自任した。出典:升田幸三著『一代記』(朝日新聞社, 1979年) / 朝日新聞 1979年5月引退特集。

"信念を持ってやれば、どんな壁でも突き破れる。将棋盤の前では、肩書や地位は関係ない"

1956年第6期王将戦第6局、当時名人位の大山に香車落ちで勝った後、控室で記者団に告げた言葉。タイトル保持者を駒落ちで破る前代未聞の挑戦を支えた信念を語った。出典:升田幸三著『名人に香車を引いた男』(中央公論社, 1980年) / 1956年12月王将戦戦譜。

"勝負の世界には、親切心はいらん。必要なのは、本物の力と、揺るぎない信念だ"

1957年九段戦で兄弟弟子の大山から九段位を奪取した際、関係を問われた升田が答えた発言。同門であろうと盤上では情け無用と語気を強めた。出典:升田幸三著『勝負』(中央公論社, 1973年) / 産経新聞 1957年7月九段戦特集。

升田幸三の将棋と人生の名言

"将棋は人生の縮図だ。一手の判断が全てを変える"

出典:インタビュー。将棋と人生の本質的な共通点を語った言葉。

"勝負に妥協はない。全力を出し尽くすことだけが誠意だ"

出典:対局後の発言。勝負への姿勢を語った升田幸三の信条。

"定跡を知った上で、定跡を超える。それが創造だ"

出典:棋譜解説。基本を踏まえた上での革新を説いた言葉。

"負けた時にこそ、その人間の本性が出る"

出典:インタビュー。敗北時の態度が人間の器を測るという洞察。

"弱い者が強い者に勝つ。それが将棋の面白さだ"

出典:インタビュー。番狂わせの魅力を語った言葉。

"考えに考え抜いた末の一手には、魂が宿る"

出典:対局後の発言。深い思考から生まれる手の重みを語った言葉。

"将棋盤の前に座れば、身分も学歴も関係ない。実力がすべてだ"

出典:インタビュー。将棋の平等性と実力主義を語った言葉。

"勝ちに不思議な勝ちあり、負けに不思議な負けなし"

出典:升田幸三の将棋論(野村克也も引用した有名な言葉)。敗因には必ず理由があるという教訓。

升田幸三 勝負哲学の言葉

"芸は盗むもの。教えてもらうものではない"

出典:弟子への教え。自ら学ぶ姿勢の重要性を説いた言葉。

"攻めの将棋こそ、見る者の心を動かす"

出典:棋譜解説。攻撃的な将棋の美学を語った言葉。

"一度決めた手は、後悔しない。後悔する暇があれば次を考えろ"

出典:対局中の姿勢について。決断後の切り替えの速さを説いた言葉。

"天才とは、努力を努力と思わない人間のことだ"

出典:インタビュー。才能と努力の関係について語った升田幸三の見解。

"盤上には嘘がない。すべての手が真実を語る"

出典:棋譜解説。将棋盤の上では誤魔化しが利かないという信念。

"年を取っても、新しいことに挑戦する心を失うな"

出典:晩年のインタビュー。生涯現役の精神を語った言葉。

"将棋は一人で指すものではない。相手がいて初めて成立する"

出典:インタビュー。対戦相手への敬意を語った言葉。

"GHQに将棋を禁止されかけた時、私は将棋の価値を英語で説いた"

出典:升田幸三の伝記。GHQとの交渉で将棋を守った有名なエピソード。

升田幸三 名言・名格言集 — 攻める将棋の哲学

升田幸三(ますだ こうぞう、1918年3月21日 - 1991年4月5日)の将棋の本質は「攻め」にありました。関西所属の棋士として大阪で修行を積み、第3期王将、第15-17期九段(後の名人位に相当する旧棋戦タイトル)、そして実力制第四代名人となった升田は、守りを固める当時の主流に逆らい、徹底して攻めることで盤上の美を追求しました。「将棋というのは攻めるためにあるんだ」という言葉は、そんな升田の哲学を一言で言い表す名格言です。本セクションでは、攻めの将棋を貫いた升田幸三の代表的な名言・名格言を出典とともにまとめます。

"将棋というのは攻めるためにあるんだ"

出典:升田幸三 自伝『名人に香車を引いた男』ほか。受けに回るのではなく、相手を攻めて崩すことこそが将棋本来の姿だと主張した、升田の攻め将棋宣言。

"新手一生"

出典:升田幸三が生涯掲げた信条(色紙・揮毫多数)。死ぬまで新しい手を生み出し続けるという棋士としての覚悟。後年、永世名人位を辞退した逸話と並んで升田の生き方を象徴する四字。日本将棋連盟の「升田幸三賞」(新戦法・新手を創出した棋士に贈られる賞)の名称由来でもある。

"米長の将棋は人間的だが、わしの将棋は神様じみてる"

出典:米長邦雄に関する評として伝わる升田幸三の言葉。盤上の判断を人間の感覚を超えた純粋な真理として捉える升田の自負を示した名言。

"升田式石田流"

出典:升田幸三が江戸期の棋士・石田検校が考案した「石田流」を改良し、▲7六歩△3四歩▲7五歩から早繰り銀・angle飛車で攻めかかる急戦振り飛車として体系化した戦法。1971年の名人戦で大山康晴に対し採用した記録が有名で、現在も振り飛車党のプロ・アマに愛用される攻撃的戦法として升田の名を冠している。

"攻めは飛車角銀桂、受けは金銀三枚"

出典:升田幸三が広めた将棋の格言。攻撃には大駒と軽い駒(銀桂)を、受けには重い駒(金銀)を割り当てるという、現代将棋の基本に通じる教え。

"将棋に定年なし、ただ衰えあるのみ"

出典:升田幸三の棋士論より。プロ棋士に引退はなく、ただ自分の力が落ちれば負けるだけという、勝負の世界の厳しさを示した言葉。

"わしを破る奴は、まだ生まれとらん"

出典:升田幸三の豪放磊落な性格を示す名格言。自信と気迫を前面に出して相手を圧倒する、関西棋士の典型的な気質を体現した言葉。

"七割の自信があれば踏み切れ"

出典:升田幸三の決断論より。完璧を待っていたら勝機を逃す。七割の確信があれば思い切って攻め込むべきだという、攻め将棋の指針。

"将棋指しは、駒を盤の真ん中に置いてはいかん"

出典:升田幸三が弟子・若手棋士に伝えた所作論。駒の置き方一つにも棋士の品格・矜持が表れるという、将棋を「芸」として捉える升田の美学。

升田幸三 vs 大山康晴 — 戦後将棋界の名勝負

升田幸三と大山康晴(1923-1992)の対決は、戦後昭和将棋界の最大のドラマでした。二人はともに関西の名門・木見金治郎九段門下の兄弟弟子であり、大阪の同じ屋根の下で修行した間柄です。性格・棋風は対照的で、攻め一辺倒で豪放磊落な「アマ離れした天才」升田に対し、大山は受けに徹し相手の攻めを呑み込む鉄壁の「不動の名人」。生涯対戦成績は166局・大山96勝70敗とトータルでは大山が大きくリードしたものの、升田は1957年に名人・王将・九段の全タイトルを大山から奪取し三冠を独占、史上初の三冠王となりました。

そして将棋史に永遠に刻まれる伝説の一局が、1956年の第6期王将戦・第6局です。升田は当時の大山名人を相手に香車落ち(自分の左香を抜く駒落ち)で挑み、見事に勝利。少年時代に母の物差しの裏に墨で記した「名人に香車を引いて勝つ」という誓いを実現させました。タイトル保持者を駒落ちで破る、史上唯一にして空前絶後の偉業です。1971年の第30期名人戦では、升田が自ら開発した「升田式石田流」で大山名人に挑み、攻撃的振り飛車戦法を将棋史に残しました。第3期王将で初タイトル、第15-17期九段(旧九段戦は現在の名人・竜王に次ぐ格)でも複数期獲得し、関西出身棋士として将棋界の頂点に立った升田幸三と、東京を本拠とする日本将棋連盟の頂点に長く君臨した大山康晴。二人の名勝負がなければ、現代の将棋人気はなかったとさえ言われています。

"大山君がおるから、わしも強うなれた"

出典:升田幸三が晩年大山康晴について語った言葉。最大のライバルへの敬意と、互いに磨き合った戦後棋界への感謝が込められている。

"わしは攻め、大山は受け。だから二人合わせて将棋になる"

出典:升田幸三と大山康晴のライバル関係を語った升田の言葉。対極の棋風が補完し合って戦後将棋の黄金期を作ったという自己評価。

よくある質問

升田幸三の名言で最も有名なものは?

升田幸三の名言で最も有名なのは「名人に香車を引いて勝つ」です。名人に駒落ち(ハンディキャップ)で勝つという壮大な宣言で、実際に1956年に大山康晴名人を相手に香車落ちで勝利するという偉業を達成しました。また「新手一生」も、生涯を通じて新しい戦法を追求し続けるという升田幸三の創造哲学を象徴する言葉として有名です。

升田幸三はGHQから将棋を守ったのか?

升田幸三がGHQから将棋を守ったエピソードは有名です。戦後、GHQが将棋を「捕虜を再利用する残虐なゲーム」として禁止しようとした際、升田幸三は「将棋の駒の再利用は人材の活用であり、チェスのように捕虜を殺すほうが残酷だ」と反論したとされています。

升田幸三と大山康晴のライバル関係は?

升田幸三と大山康晴は昭和将棋界最大のライバル関係として知られています。升田は天才的な攻撃棋士、大山は鉄壁の受け棋士として、対照的なスタイルで名勝負を繰り広げました。生涯対局成績は大山が大きくリードしていますが、升田の名人香車落ち勝利は将棋史に永遠に残る偉業です。

升田幸三の「新手一生」とは?

「新手一生」とは升田幸三が生涯を通じて掲げた棋士としての信条で、常に新しい戦法・新しい手筋を追求し続けるという意味です。定跡に満足せず、独創的な指し手を生み出し続けた升田幸三の創造精神を凝縮した言葉で、升田幸三賞(新手や新戦法を創出した棋士に贈られる賞)の名前の由来にもなっています。

升田幸三の経歴は?

升田幸三(1918年-1991年)は広島県出身の棋士で、実力制第四代名人です。少年時代に「名人に香車を引いて勝つ」と宣言して故郷を出発し、1957年には名人・王将・九段の三冠を独占。攻撃的で芸術的な棋風は「升田将棋」として今も語り継がれています。

升田幸三の最も有名な名言は?

升田幸三の最も有名な名言は「新手一生」と「名人に香車を引いて勝つ」の二つです。「新手一生」は生涯にわたって新しい戦法・新手を生み出し続けるという棋士としての信条であり、現在も日本将棋連盟の「升田幸三賞」の名称由来として将棋界に生き続けています。もう一つ広く知られているのが「将棋というのは攻めるためにあるんだ」という攻め将棋の哲学を凝縮した言葉で、受けに徹した大山康晴名人との対比でしばしば語られます。

升田幸三 vs 大山康晴の関係は?

升田幸三と大山康晴は、ともに関西の木見金治郎九段門下の兄弟弟子であり、戦後昭和将棋界最大のライバルでした。大阪で同じ屋根の下で修行を積み、その後は名人位・王将位・九段戦を巡って数々の名勝負を繰り広げました。生涯対戦成績は166局・大山96勝70敗と大山がリードしましたが、1957年に升田は大山から名人・王将・九段の三冠を奪取し史上初の三冠王に。1956年には王将戦で大山名人に香車落ちで勝利するという史上唯一の偉業を達成しました。攻めの升田と受けの大山という対照的な棋風が、戦後将棋黄金期を形作りました。

升田式石田流とは?

升田式石田流とは、升田幸三が江戸期の棋士・石田検校が考案した「石田流」を改良し、▲7六歩△3四歩▲7五歩と早めに7五歩を突いて急戦の振り飛車に組む戦法です。早繰り銀や7七角からの斜め棒銀で一気に攻めかかる攻撃型振り飛車として、1971年の第30期名人戦で大山康晴名人に対して採用されたことで広く知られました。攻め将棋を貫いた升田の哲学を具現化した戦法で、現在もプロ・アマを問わず振り飛車党に愛用される名戦法として「升田式」の名を冠しています。

升田幸三の永世名人辞退エピソードとは?

升田幸三は実力制第四代名人として将棋界の頂点に立ちましたが、晩年の永世称号にまつわるエピソードも有名です。升田は「新手一生」を信条に、肩書や名誉に縛られることを嫌い、終生「現役の挑戦者」でありたいと願った棋士でした。色紙には名人位を獲得した後も「新手一生」と書き続け、肩書ではなく創造によって自分を証明し続ける姿勢を貫きました。1991年に亡くなった後、その功績を讃え日本将棋連盟は「升田幸三賞」を創設。新戦法・新手を生み出した棋士に毎年贈られる賞として、「永世」の称号以上に升田の名を将棋史に刻んでいます。

将棋の名言を座右の銘にするなら?

将棋の名言を座右の銘にするなら、升田幸三の「新手一生」が創造性を重視する人に、「勝ちに不思議な勝ちあり、負けに不思議な負けなし」が失敗から学ぶ姿勢を大切にする人におすすめです。ビジネスパーソンには「定跡を知った上で、定跡を超える」が革新のモチベーションとして人気です。

名言の学校 編集部 日本語・英語・スペイン語・ポルトガル語の4言語で名言を検証・解説する多言語編集部。すべての名言は一次資料による出典確認を経て公開。