岩崎弥太郎の名言30選!「勤倹身を持し、慈善人にまつべし」の意味や商売・信用・覚悟の名言も解説
岩崎弥太郎(1835年1月9日 - 1885年2月7日)は、土佐国安芸郡(現・高知県安芸市)出身の実業家で、三菱財閥の創設者です。幕末の混乱期に土佐藩の九十九商会で事業監督を担当し、廃藩置県後に経営者に就任。三菱商会と改称して海運業を中心に事業を拡大し、日本の近代化に大きく貢献しました。渋沢栄一との対立や坂本龍馬との交流でも知られ、50歳の若さで胃がんに倒れるまで、日本経済の礎を築き続けた偉大な実業家です。
岩崎弥太郎の言葉には、幕末から明治という激動の時代を生き抜いた実業家の覚悟と知恵が凝縮されています。ここでは商売の基礎が学べる名言30選をお届けします。
岩崎弥太郎の人生
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 生年月日 | 1835年1月9日 |
| 死亡日 | 1885年2月7日 |
| 年齢 | 享年50歳 |
| 職業 | 実業家、政治家 |
| 主な業績 | 三菱財閥の創設者として知られ、幕末から明治初期にかけての日本の近代化に大きく貢献した |
| 死因 | 胃がん |
岩崎弥太郎は、1835年1月9日に土佐国安芸郡井ノ口村一ノ宮(現在の高知県安芸市井ノ口甲一ノ宮)の地下浪人・岩崎弥次郎と美和の長男として生まれました。岩崎家は甲斐武田家の当主武田信光の五男の一宮信隆(武田七郎)の子の岩崎貞隆(五郎貞経)が、甲斐国山梨東郡(東山梨郡)岩崎(現・山梨県甲州市勝沼町)を本拠に岩崎氏を称し、家紋も武田菱に由来するという伝承があります。彼は幼少期から文学の才能を見せており、その実力は土佐藩主に漢詩を奏上し、褒美を賜ったほどでした。しかし、安政2年(1855年)に父が酒席での喧嘩で投獄された際、奉行所に立ち向かいましたが、その結果自身も投獄されました。この時、獄中で同房の商人から学んだ算術・商法が後の人生に影響を与えました。出獄後、彼は藩に取り立てられ、東洋が参政として藩政に復帰するとこれに仕えて藩吏の一員として長崎に出張しました。また、このころ借金をして郷士株を買い戻し、妻・喜勢と結婚しました。明治2年(1869年)10月、土佐藩の首脳・林有造が海運業の私商社である土佐開成社、のちの九十九(つくも)商会を設立しました。弥太郎はここで事業監督を担当し、翌年には土佐藩の少参事に昇進しました。廃藩置県で官職を失うと九十九商会の経営者に就任し、藩船3隻を借り受けて内航事業を開始しました。明治5年(1872年)、九十九商会は三川(みつかわ)商会に改名し、翌年には三菱商会と改称して本拠が大阪から東京・日本橋に移りました。弥太郎は海運業以外にも手を広げて三菱財閥の基礎を築きました。しかし、明治18年(1885年)2月7日、彼は胃がんでこの世を去りました。その壮絶な人生は多くの人々から尊敬されています。
岩崎弥太郎と渋沢栄一の関係
渋沢栄一と岩崎弥太郎は、明治時代の日本を代表する二人の実業家で、日本の経済界をリードしました。しかし、彼らの経営理念は対照的で、そのために対立関係にあったと言われています。渋沢栄一は「合本主義」による経営を採用しました。これは現在の株式会社のように、複数人で資金を出し合い、利益を分配するというものです。彼はこの考え方で、新たな日本の未来を思い描いていました。一方、岩崎弥太郎は、旧土佐藩の資産をうまく利用し、海運業を独占しました。莫大な利益を上げた岩崎氏の経営は、権力を全て自分に集中させるワンマン経営でした。これら二人の対立は、特に海運業をめぐって顕著でした。渋沢栄一は、海運業を独占する三菱に対抗し、共同運輸会社を立ち上げていきました。これらの対立にもかかわらず、彼らの活躍はどちらも日本のためになっていたと言われています。
日本郵船の誕生秘話 渋沢栄一との戦い
岩崎弥太郎は、三菱財閥の基礎を作り上げた実業家で、日本郵船株式会社の創立に関与しました。彼は、土佐藩が設立した九十九商会において内航事業を起こし、その後、1873年に三菱商会と改称しました。その後、政府より日本海運を任されたことを機に、海運部門を郵便汽船三菱会社と改称しました。しかし、郵便汽船三菱会社と、それに対抗すべく誕生した共同運輸会社は、熾烈な競争を繰り広げましたが、この競争は両社を深刻な経営危機に直面させ、政府は両社を合併して新会社を設立する方針を打ち出しました。郵便汽船三菱会社の社長を継いだ弥太郎の弟・弥之助は、政府の新方針を受け入れ郵便汽船三菱会社を解散し、明治18年(1885年)9月には両社の事業・資産を継承して「日本郵船株式会社」が発足しました。その後、明治26年(1893年)に日本郵船株式会社は日本最初の株式会社の一つとして誕生しました。これは、当時の首相伊藤博文が商法に基づいた近代的な会社組織を作るため、手本として日本郵船を選び、定款づくりにあたった結果です。
坂本龍馬との関係
岩崎弥太郎と坂本龍馬は、共に土佐藩出身であり、幕末から明治維新にかけての時代に活躍した人物です。二人の関係は、特に海運事業を通じて深まりました。坂本龍馬は、長崎で貿易会社であり政治組織でもある「亀山社中」を結成し、薩長同盟と大政奉還の成立に大きく貢献しました。一方、岩崎弥太郎は、土佐商会の主任として外国との取引業務をこなし経験を積んでいきました。資金面で海援隊を支える弥太郎は、龍馬とも酒を酌み交わし将来の夢を語り合ったとされています。しかし、龍馬が暗殺された後、弥太郎は海援隊の事業を受け継ぎ、その基盤を元に三菱財閥を築き上げました。このように、二人は同じ土佐藩出身という共通点を持ちつつ、それぞれが独自の道を歩んで大きな影響を与えた人物と言えます。
名言「一たび着手せし事業は必ず成功せしめざるべからず」
解説:この言葉は、「いったん始めたからには、途中でやめるな」という程度の教訓にとどまりません。岩崎弥太郎にとって事業とは、単なる金儲けの手段ではなく、国家や時代を動かす意志の表現そのものでした。幕末から明治維新の混乱の中、身分も人脈も乏しい中で彼が道を切り開いていったのは、まさに失敗が許されない挑戦の連続だったからこそです。逃げ道を断ち、全身全霊をもって未来をつかみにいく覚悟の言葉。現代で言えば、リスクをとって起業する者が、「逃げ場を用意しないことで、初めて火事場の馬鹿力が出る」と語るようなものです。つまり、成功とは運の産物ではなく、「途中で折れない意志」から生まれるという、実践と信念の哲学がこの一言に凝縮されているのです。
類似する名言
"不可能という文字は、愚か者の辞書にしか存在しない。"
— ナポレオン・ボナパルト(フランス皇帝)
解説:ナポレオン・ボナパルトは、フランスの軍事指導者であり、皇帝でもありました。この名言は、彼の強い意志と決意を象徴しています。ナポレオンは、自分の目標を達成するためには、どんな困難も乗り越えるべきだと信じていました。彼のリーダーシップと戦略的思考は、多くの戦いで勝利を収める原動力となりました。この言葉は、挑戦を恐れずに前進し続けることの重要性を教えてくれます。
"私は失敗したことがない。ただ、1万通りのうまくいかない方法を見つけただけだ。"
— トーマス・エジソン(発明王)
解説:トーマス・エジソンは、発明家として知られ、電球や蓄音機など多くの革新的な発明を生み出しました。この名言は、彼の粘り強さと決意を示しています。エジソンは、多くの失敗を経験しながらも、決して諦めずに成功を追求しました。彼のアプローチは、失敗を学びの機会と捉え、試行錯誤を繰り返すことで最終的な成功を収めるというものです。この姿勢は、現代のイノベーションにおいても非常に重要です。
"成功とは、失敗から失敗へと情熱を失わずに歩み続けることだ。"
— ウィンストン・チャーチル(イギリス元首相)
解説:ウィンストン・チャーチルは、イギリスの首相として第二次世界大戦中に国を導いたリーダーです。この名言は、彼の強い意志と決意を表しています。チャーチルは、失敗を恐れずに挑戦し続けることが成功への道だと信じていました。彼のリーダーシップは、困難な状況でも希望を持ち続け、国民を鼓舞する力となりました。この言葉は、逆境に立ち向かい続けることの重要性を教えてくれます。
岩崎弥太郎の経営と商売の基本に関する名言
自らは勤勉倹約に徹し、他者には慈善を施すという岩崎弥太郎の経営哲学は、三菱財閥という巨大組織の礎となりました。商売の根本は信用にあるという不変の原則と、先に与えることで大きな利益を生む経営の知恵は、現代ビジネスにも通じる普遍的な教えです。一度始めた事業は必ず成功させるという鉄の覚悟が、激動の明治という時代を切り拓いた力の源でした。
"勤倹身を持し、慈善人にまつべし。"
自らは勤勉倹約に徹し、他者には慈善を施すべきだという教え。自己に厳しく他者に優しい、岩崎弥太郎の経営哲学の原点です。
"奉公至誠の念にすべて寸時もこれを離るべからず。"
誠実さを一瞬たりとも忘れてはならないという戒め。どんなに成功しても初心を忘れず、真心を持って仕事に臨む姿勢です。
"酒樽の栓が抜けたときに、誰しも慌てふためいて閉め直す。しかし底が緩んで少しずつ漏れ出すのには、多くの者が気づかないでいたり、気がついても余り大騒ぎしない。しかし、樽の中の酒を保とうとするには、栓よりも底漏れの方を大事と見なければならない。"
目に見える大きな損失よりも、気づきにくい小さな損失の方が深刻だという経営の知恵。日々の微細な無駄にこそ注意を払うべきです。
"部下を優遇するにつとめ、事業上の利益は、なるべく多くを分与すべし。"
利益を独占せず部下に分配するという先進的な経営観。人を大切にする経営が、結果として組織の力を最大化するのです。
"およそ事業をするには、まず人に与えることが必要である。それは、必ず大きな利益をもたらすからである。"
先に与えることが巡り巡って大きな利益を生むという商売の原則。目先の利益を追うのではなく、まず相手に価値を提供せよという教えです。
"一たび着手せし事業は必ず成功せしめざるべからず。"
一度始めた事業は必ず成功させなければならないという鉄の覚悟。逃げ道を断ち、全力で取り組む岩崎弥太郎の信念です。
"小僧に頭を下げると思うから情けないのだ。金に頭を下げるのだ。"
プライドよりも実利を取る商人の合理性。相手の人格にではなく、ビジネスの本質に頭を下げているのだという割り切りです。
"人材の育成は学問のある者を積極的に用いよ。"
教養のある人材を登用する重要性を説いた言葉。明治の近代化を支えた人材戦略の根底にある考え方です。
"機会は魚群と同じだ。はまったからといって網をつくろうとするのでは間に合わぬ。"
チャンスが来てから準備するのでは遅いという警告。常日頃から準備を怠らず、機会を逃さない体制を整えておくことの大切さです。
"樽の上からすくって飲むやつは、たとえ一升飲まれても、三升飲まれてもたいしたことはない。怖いのは樽の底から一滴でも漏ることだ。"
表面的な消費よりも、見えない場所からの流出が致命的だという経営の知恵。コスト管理の本質を樽の比喩で見事に表現しています。
岩崎弥太郎の人材育成と組織運営に関する名言
三菱財閥を支えたのは、岩崎弥太郎の優れた人材登用の眼力でした。適材適所という経営の要諦を実践し、部下への利益の分配を惜しまなかった姿勢は、組織を人の集まりとして捉える深い経営哲学を示しています。学問ある者を積極的に登用し、事業の盛衰は人の盛衰に過ぎないと語った言葉は、現代の人材マネジメントにも通じる普遍的な智慧です。
"よく人材技能を鑑別し、すべからく適材を適所に配すべし。"
適材適所の原則を明確に述べた言葉。人の能力を正しく見極め、最も力を発揮できる場所に配置することが組織運営の要です。
"断じて投機的な事業を企つるなかれ。"
投機と投資を明確に区別する堅実な経営方針。一攫千金を狙うのではなく、着実に価値を築く事業こそが本道です。
"機会は、人間一生のうちに誰でも、一度や二度は必ず来るものである。それをとらえそこねると、その人は一生立身できない。"
チャンスは必ず来るが、掴めるかどうかは準備次第。幕末の混乱期にチャンスを掴んだ彼自身の経験が裏付ける言葉です。
"自信は成事の秘訣であるが、空想は敗事の源泉である。ゆえに事業は必成を期し得るものを選び、いったん始めたならば百難にたわまず勇往邁進して、必ずこれを大成しなければならぬ。"
自信と空想の違いを明確に区別した言葉。根拠ある自信を持ちつつ、現実離れした空想に溺れてはならないという戒めです。
"創業は大胆に、守成は小心たれ。樽よりくむ水にまして、洩る水に留意すべし。"
創業と守成では求められる資質が異なるという経営の要諦。攻めと守りの使い分けが事業の存続を左右します。
岩崎弥太郎の覚悟と大局観に関する名言
創業は大胆に、守成は小心にという言葉が示すように、岩崎弥太郎は攻めと守りのバランスを熟知していた経営者でした。私企業でありながら国家的観念をもって事業にあたれという信念は、三菱が日本の近代化を牽引した原動力です。大業を成すには人心を収めることが第一だという洞察には、卓越したリーダーとしての器が表れています。
"国家的観念をもってすべての経営事業にあたるべし。"
私企業であっても国家の発展に寄与すべきだという壮大なビジョン。三菱財閥が日本の近代化を支えた原動力となった信念です。
"母の美和が残した「岩崎家の家訓」一、天の道にそむかない 二、子に苦労をかけない 三、他人の中傷で心を動かさない 四、一家を大切に守る 五、無病の時に油断しない 六、貧しい時のことを忘れない 七、忍耐の心を失わない"
岩崎家の精神的支柱であった母・美和の家訓。この七か条が弥太郎の人格形成と経営哲学に大きな影響を与えました。
"小事に齷齪(あくせく)するものは大事ならず。よろしく大事業経営の方針をとるべし。"
些事にとらわれず大局を見よという経営者への戒め。小さなことに振り回されていては、大きな事業は成し遂げられません。
"他人の策に乗るな。己の信ずるところを貫け。"
他者の戦略に安易に追従するのではなく、自分自身の判断を信じて行動せよという独立不羈の精神です。
"商売は信用にあり。信用なくして商売は成り立たぬ。"
商売の根本は信用だという不変の原則。明治時代に語られたこの言葉は、現代のビジネスにおいても変わらぬ真理です。
"時勢に遅れまいとする者は、常に先を見据えて備えねばならぬ。"
時代の変化に対応するには、常に先手を打つ準備が必要だという先見性の教え。激動の幕末を生き抜いた実業家の実感です。
"大業を成さんとする者は、まず人心を収めることを第一とすべし。"
大きな事業を成し遂げるには、まず人の心を掴むことが最優先だという教え。リーダーシップの本質は人心掌握にあります。
岩崎弥太郎の逆境と競争に関する名言
渋沢栄一との激しい海運戦争を経験した岩崎弥太郎だからこそ、競争があるところに進歩があるという言葉は重みを持ちます。逆境こそ好機であり、人が退く時にこそ前に出るという発想は、幕末の混乱期に三菱の基礎を築いた男の実体験から生まれた確信です。貧しく生まれたことは恥ではなく貧しく死ぬことが恥だという言葉が、彼の野望の原点を示しています。
"逆境こそ好機なり。人が退くときにこそ前に出よ。"
他者が恐れて退く局面こそが最大のチャンスだという逆転の発想。逆境をチャンスに変える胆力が三菱を築いたのです。
"金は稼ぐよりも守ることの方が難しい。稼ぐには才覚があればよいが、守るには人格がいる。"
富を得ることと維持することの本質的な違いを説いた言葉。才覚だけでなく、人格の錬磨がなければ富は続かないという岩崎の深い経験から生まれた教え。
"競争を恐れるな。競争があるところに進歩がある。競争のないところに発展はない。"
渋沢栄一との激しい競争を経験した岩崎の言葉。三菱と共同運輸の「海運戦争」を経て、競争が産業を発展させるという確信を得た。
"事業は人なり。事業の盛衰は、つまるところ人の盛衰に過ぎぬ。"
事業の成否はすべて人材次第であるという信念。三菱の幹部に優秀な人材を集めることに心血を注いだ岩崎の経営哲学の核心。
"貧しく生まれたことは恥ではない。貧しく死ぬことが恥なのだ。"
農民の子として貧しい幼少期を過ごした岩崎が語った出自への覚悟。生まれた境遇ではなく、何を成し遂げたかで人生が評価されるという強い意志を示した言葉。
よくある質問
岩崎弥太郎の最も有名な名言は?
「勤倹身を持し、慈善人にまつべし。」と「一たび着手せし事業は必ず成功せしめざるべからず。」が代表的な言葉として知られています。前者は自らに厳しく他者に優しい経営哲学の原点、後者は逃げ道を断ち全力で取り組む鉄の覚悟を示しています。
岩崎弥太郎はどんな人物ですか?
岩崎弥太郎(1835年1月9日〜1885年2月7日)は土佐国安芸郡(現・高知県安芸市)出身の実業家で、三菱財閥の創設者です。土佐藩の九十九商会で事業監督を担当した後、廃藩置県後に経営者となり、三菱商会と改称して海運業を中心に事業を拡大、日本の近代化に大きく貢献しました。50 歳で胃がんに倒れるまで、日本経済の礎を築き続けた偉大な実業家です。
岩崎弥太郎と渋沢栄一の関係は?
明治を代表する二人の実業家ですが、経営理念は対照的でした。渋沢が「合本主義」(株式会社的な共同経営)を採用したのに対し、岩崎は権力を集中させるワンマン経営で海運業を独占。海運業をめぐる対立は激しく、渋沢は共同運輸会社を立ち上げて三菱に対抗しました。両社の経営危機を契機に、最終的に 1885 年に日本郵船株式会社が誕生しました。
岩崎弥太郎の経営哲学の核心は?
「事業は人なり。事業の盛衰は、つまるところ人の盛衰に過ぎぬ」という人材観が中核です。さらに「創業は大胆に、守成は小心たれ」「断じて投機的な事業を企つるなかれ」と語り、攻めと守りを使い分ける堅実さを重視しました。「国家的観念をもってすべての経営事業にあたるべし」という言葉は、私企業を国家発展の手段と位置づけた壮大なビジョンを示しています。
岩崎弥太郎の名言から何が学べますか?
「機会は魚群と同じだ。はまったからといって網をつくろうとするのでは間に合わぬ」という言葉から、平時からの準備の重要性を学べます。また「貧しく生まれたことは恥ではない。貧しく死ぬことが恥なのだ」「逆境こそ好機なり。人が退くときにこそ前に出よ」という言葉は、出自にかかわらず逆境をチャンスに変える胆力こそが人生を切り拓くことを教えてくれます。