アントニオ猪木の名言25選|「迷わず行けよ、行けばわかるさ」燃える闘魂の言葉(2026)
アントニオ猪木(本名・猪木寛至、1943年2月20日〜2022年10月1日)は、「燃える闘魂」の異名で日本のプロレスを国民的エンターテインメントに押し上げた伝説のレスラーであり、新日本プロレスの創立者である。横浜市鶴見区で生まれ、敗戦後の混乱期に父を失い、1957年に14歳で一家とともにブラジル・サンパウロへ移住。コーヒー農園で過酷な労働に従事しながら、現地で力道山にスカウトされ、1960年4月に日本プロレスへ入門。同年9月30日、台東区体育館で大木金太郎を相手に同期のジャイアント馬場とともにデビューを果たした。
1972年、猪木は新日本プロレスを旗揚げし、「ストロングスタイル」の名のもとに本気の格闘技性をリングに持ち込んだ。1976年6月26日、日本武道館でボクシング世界ヘビー級王者モハメド・アリと対峙した「格闘技世界一決定戦」は、15ラウンドを戦い抜いて引き分けに終わったが、後年UFCをはじめとする総合格闘技(MMA)誕生の原点として再評価される歴史的事件となった。1989年に「スポーツ平和党」を立ち上げ参議院議員に初当選。1990年湾岸危機の際にはイラクに渡り、サダム・フセイン政権との直接交渉で日本人人質46人の解放に貢献。30回を超える北朝鮮訪問を通じてピョンヤンで国際スポーツ大会を開催するなど、誰も踏み込まなかった舞台に挑み続けた。
晩年は心アミロイドーシス(後にALS的症状とも報じられた難病)と闘いながら、車椅子からYouTubeを通じて「元気ですか」と全国へ語りかけた。2022年10月1日、79歳で逝去。亡くなる直前にSNSで公開した詩「道」の朗読は、最後のメッセージとなった。「元気があれば何でもできる」「闘魂」「迷わず行けよ、行けばわかるさ」——プロレスの枠を超えて世代を貫く猪木の言葉は、いまも挑戦をためらう人の背中を押し続けている。本記事では、出典を確認できる25の名言を、テーマごとに解説していく。
アントニオ猪木の人生
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 生年月日 | 1943年2月20日 |
| 出身地 | 神奈川県横浜市鶴見区 |
| プロレスデビュー | 1960年9月30日(日本プロレス、力道山道場) |
| 団体創設 | 1972年 新日本プロレス旗揚げ |
| 代表的な試合 | 1976年6月26日 モハメド・アリ戦(日本武道館) |
| 政治活動 | 1989年 スポーツ平和党を結党し参議院議員(2期) |
| 外交 | 1990年 イラク人質解放、30回以上の北朝鮮訪問 |
| 引退試合 | 1998年4月4日 東京ドーム、対ドン・フライ戦 |
| 逝去 | 2022年10月1日、79歳 |
詩「道」の全文:「迷わず行けよ、行けばわかるさ」

1998年4月4日、東京ドーム。約7万人の観客が見守る中、対ドン・フライ戦で勝利を収めた猪木は、引退セレモニーでこの詩を朗読した。普段の闘志あふれる姿とは異なり、静かに語り始めた猪木の声に会場は水を打ったように静まり返り、最後の「迷わず行けよ、行けばわかるさ」の一節で大歓声が沸き起こった。なお、原典は真宗大谷派の僧侶・清沢哲夫(1921-2000)の詩集『無常断章』に収められた「道」であり、猪木自身は長く「一休宗純の言葉」として紹介していたが、これは事実誤認である(清沢の原詩を本人が改変・暗誦したかたち)。出典を超えて、55年のプロレス人生を賭けて朗読されたこの言葉は、猪木の生き様そのものとなった。
"この道を行けばどうなるものか、危ぶむなかれ、危ぶめば道はなし、踏み出せばその一足が道となり、その一足が道となる。迷わず行けよ、行けばわかるさ。"
出典:1998年4月4日、東京ドーム引退セレモニーでの朗読。原典は清沢哲夫『無常断章』所収の詩「道」。猪木の代表作として知られる。「危ぶめば道はなし」——立ち止まって迷うことこそが道を閉ざすという逆説。踏み出した一歩が、未来の道そのものを生み出す。
"踏み出せば、その一足が道となる。"
出典:詩「道」(1998年引退式での朗読)より抜粋。詩「道」の核心を凝縮した一節。行動することで初めて道が生まれるという、待つことを否定する猪木哲学の真髄。13歳でブラジルへ渡り、力道山に弟子入りし、新日本プロレスを旗揚げした猪木自身の人生と完全に重なっている。
"道はどんなに険しくとも、笑いながら歩こうぜ!"
出典:晩年の講演・インタビュー等で繰り返し語られた言葉(広く流布/一次出典の特定は困難)。険しい道も笑いながら歩く——苦難を正面から受け止めながら明るく前進するという猪木の生き様そのもの。心アミロイドーシスの闘病中も笑顔で「元気ですか」と語り続けた最晩年の姿勢と一致する。
"「迷わずいけよ」と言っても、俺にも迷う時もある。"
出典:晩年のインタビューより(広く流布、複数の媒体で言及あり)。燃える闘魂として知られる猪木も、迷いを抱える一人の人間だったことを率直に認めた言葉。それでも進み続けたという事実が、詩「道」の言葉に説得力を与えている。
闘魂の名言:「元気ですかー!」と国民的フレーズの誕生

「元気ですかーっ!」から始まる猪木の掛け声は、1980年代に日本中を席巻した。プロレスの試合だけでなく、企業の講演会、政治活動の街頭演説、テレビ番組のオープニングまで、猪木は必ずこのフレーズから始めた。プロレスの枠を超えて、「闘魂」は日本人の心に勇気を与える共通言語となり、ビジネスパーソンから子どもまでが猪木の真似をした。1998年4月4日、東京ドームの引退試合では7万人の観客とともに「1、2、3、ダーッ!」を叫び、その光景は平成プロレスを象徴する場面となった。晩年、心アミロイドーシスで車椅子生活を余儀なくされた猪木は、痩せ細った体でYouTubeに「元気ですか」と語りかけた。2022年10月1日に79歳で他界するその直前まで、猪木は「元気」という言葉を発信し続けた。
"元気ですかーっ!"
出典:1980年代以降の試合前マイクパフォーマンス、講演、政治活動全般での定番フレーズ。アントニオ猪木のトレードマーク。日本プロレス史を超えて昭和・平成の国民的フレーズとなり、観客を一体化させる「闘魂注入」の合図として機能した。
"元気が一番、元気があれば何でもできる!"
出典:1990年代以降の講演・テレビ番組(『1、2、3、ダーッ!』掛け声と並ぶ猪木のキャッチフレーズとして定着)。元気という根本的な活力こそがあらゆる挑戦の土台になる、という猪木の信念。難病闘病中の最晩年もこの言葉を発信し続け、「健康なときの言葉」を「病と闘う者の言葉」へと深化させた。
"1、2、3、ダーッ!"
出典:1990年代後半以降、試合・イベント・選挙演説等での締めの掛け声。1998年4月4日の東京ドーム引退試合で7万人の観客と最後に叫んだ場面が象徴的。観客と一体化する「闘魂発信」の儀式として広く愛された。
挑戦と勝負の名言:「出る前に負けること考えるバカいるかよ」

この言葉が世に出た背景には、1976年6月26日のモハメド・アリ戦がある。世界ヘビー級王者アリとの異種格闘技戦に挑むにあたり、周囲からは「殺される」「絶対に勝てない」という声が殺到した。出場をやめろとアドバイスする関係者も少なくなかった。しかし猪木は「負けることを考えたら本当に負ける」と一切の弱気を排除してリングに上がった。15ラウンドを戦い抜き判定は引き分け。アリのジャブを警戒しながらキックでアリの足を執拗に狙い、史上初めて世界ヘビー級王者と互角に渡り合った日本人格闘家となった。後にこの試合は、UFCをはじめとする総合格闘技誕生の原点として再評価される。「出る前に負けることを考えない」という猪木の哲学は、まさにこのアリ戦で全世界に証明された。後年、猪木は弟子や後輩レスラーに対しこの言葉を繰り返し説き、新日本プロレスの精神的支柱となった。
"出る前に負けること考えるバカいるかよ!"
出典:弟子への試合前訓辞として知られる猪木の名言(複数のレスラー証言、自著・対談集にも登場)。ストレートで力強い言葉。始める前から失敗を恐れるのは無意味——まず全力で挑むという猪木流の勝負哲学。1976年アリ戦に挑む心構えと完全に一致する。
"さあ、やるんだ。やり抜くのだ。"
出典:自著・講演で繰り返し語られた猪木の行動哲学(広く流布)。考え過ぎず、やると決めたらやり抜く——プロとしての覚悟が凝縮されたシンプルな言葉。猪木が新日本プロレス旗揚げ(1972年)から国会議員初当選(1989年)まで、節目ごとに自分自身に言い聞かせてきた言葉でもある。
"常識から1ミリでもいいから一歩踏み出せ。"
出典:晩年のインタビュー・著書『最後の闘魂』ほか(広く流布)。大きな変革ではなく、まず1ミリの踏み出しを促す。アリ戦も新日本旗揚げも北朝鮮プロレス興行も、すべては「常識を1ミリ越える」ことの積み重ねだったという、猪木の革新精神を示す言葉。
"落ちたら、またはいあがってくればいいだけのこと。"
出典:自著・講演にて繰り返し言及(広く流布)。失敗や挫折を恐れない猪木の豪快な人生観。新日本プロレスの経営危機(1980年代)、政治活動での挫折、晩年の闘病——倒れたとしても、また立ち上がればいいというプロレスの精神そのもの。
プロレス哲学とプロ意識の名言

猪木は1972年に新日本プロレスを旗揚げするとき、「ストロングスタイル」という旗印を掲げた。総合格闘技にも通じる本気の格闘技性をリング上に持ち込み、ジャイアント馬場の全日本プロレスとは異なる路線を打ち出した。後にUWFを旗揚げした前田日明や、長州力、藤波辰爾、武藤敬司、橋本真也、蝶野正洋ら名レスラーを輩出。リング上のダイナミックなパフォーマンスの裏には、若手時代の力道山道場での過酷な「ちゃんこ番」と稽古、ブラジル農場での重労働で培った下半身の強さ、そして引退間際まで続けたヒンズースクワット数千回の自主トレが隠されていた。猪木のプロ意識は、「派手に見えるほど、その裏で地味な努力をしている」というシンプルな信条に貫かれている。
"派手に見えれば見えるほど、裏で地味な努力をしているのがあらゆる世界のプロだ。"
出典:自伝・各種インタビューより(広く流布)。リング上のダイナミックなパフォーマンスは、地道なトレーニングの賜物。若手時代から続けたヒンズースクワット数千回、ブリッジ運動など、猪木の鍛錬量は同時代のレスラーから語り継がれている。
"悩みながらたどり着いた結論は、やはりトレーニングしかない。"
出典:自著・講演における語り(広く流布)。どんな答えも最後は自分を鍛えることに帰着するという猪木の確信。スランプや迷いに対する猪木流の処方箋であり、若手レスラーへの指導の核でもあった。
"強い相手と戦うから、強くなれるんだ"
出典:プロレス雑誌のインタビューほか(広く流布)。アリ、ルー・テーズ、ストロング小林、大木金太郎、タイガー・ジェット・シン、スタン・ハンセン、ハルク・ホーガン——世界の強豪と戦い続けた猪木の、成長のための対戦哲学。新日本プロレスの「ストロングスタイル」の根幹を成す思想。
"闘いのゴングはいつでも鳴っている"
出典:自著・著作タイトルにも採用された猪木の代表的格言(広く流布)。リングの試合だけでなく、人生そのものが闘いの連続であるという猪木の世界観を示す。プロレスを「人生の縮図」として捉えた猪木らしい一句。
夢と挑戦の名言:「夢を持て!でかければでかいほどいい」
猪木の夢は、リングの中だけでは収まらなかった。1989年、46歳で参議院議員選挙に立候補し、スポーツ平和党から比例区で当選。1990年の湾岸危機ではイラクの首都バグダッドに自ら飛び、「平和の祭典」を開催してサダム・フセイン政権との交渉により日本人人質46人の解放に貢献した。北朝鮮には金日成・金正日との関係を背景に30回以上訪問し、1995年には平壌の綾羅島メーデースタジアムで「平和のための平壌国際体育・文化祝典」を開催。リック・フレアー、スコット・ノートンら米国レスラーと共に、38万人の観客動員という前代未聞のプロレス興行を成功させた。「夢を大きく広げて、退路を断つ」——この逆説的戦略こそが、誰も挑まなかった舞台に挑み続けた猪木の原動力だった。
"夢を持て!でかければでかいほどいい。とにかく、夢を持て。大ぶろしきをひろげておさまりがつかなくなってみろ、やらざるを得なくなるではないか。"
出典:講演・自著で繰り返し語られた猪木の代表的言葉(広く流布)。大きな夢を掲げることで自分を追い込むという逆説的戦略。北朝鮮プロレス興行(1995年)やイラク人質解放(1990年)など、猪木自身が「大ぶろしきを広げて」実現させた数々の挑戦の哲学的背景。
"子供に夢を持たせたければ、大人こそ夢を持て。"
出典:自著・教育関連のインタビュー(広く流布)。言葉で夢を説くのではなく、背中で示せという猪木の信念。次世代への責任を感じさせる言葉であり、晩年の青少年向け講演活動の核となった思想。
"夢は逃げない。逃げるのはいつも自分だ"
出典:晩年の講演・SNSメッセージで繰り返し言及(広く流布、複数の媒体に記録あり)。夢を諦めるのは環境ではなく自分の心だと喝破した、行動を促す猪木の厳しくも温かいメッセージ。
"人は歩みを止めたときに、そして挑戦をあきらめたときに、年老いていくのだと思います。"
出典:自著および各種講演(広く流布)。肉体的な年齢ではなく、挑戦し続けることが若さを保つ秘訣だという猪木の人生哲学。79歳まで「元気ですか」と発信し続けた猪木の言葉だけに説得力がある。
人間関係と政治・外交の名言
プロレスラーとして長く格闘技の世界に生き、政治家として国際外交にも携わった猪木は、人間関係についても独自の哲学を持っていた。1989年、当時誰もが「タレント議員」と冷ややかに見る中、スポーツ平和党を結党し参議院議員に初当選。1990年8月、湾岸危機の最中、誰もイラクへの渡航を勧めない状況で猪木は単身バグダッドに飛び、12月には妻子も同伴で「平和の祭典」を開催。サダム・フセイン政権との交渉により日本人人質46人の解放に貢献した。「優しさのない正義はない」——この言葉は、力だけの強さや、敵対だけの政治を否定する、晩年の猪木が辿り着いた境地である。
"俺は人が喜んでくれるのが、生きがいというか喜び。"
出典:自伝・晩年のインタビュー(広く流布)。リングの上で観客を沸かせ、政治の世界でも人々のために動き続けた猪木。人の喜びを自分の喜びとする精神が、リング、政治、外交、闘病を貫く猪木のあらゆる行動の根底にあった。
"優しさのない正義はなく、強さもない。"
出典:自著・講演(広く流布)。真の強さとは優しさに裏打ちされているという猪木の信念。力だけの正義は空虚だという深い洞察であり、1990年の湾岸危機におけるイラク人質解放の動機にも通じる思想。
"ひとりだからこそできることもある。"
出典:自伝より(広く流布)。孤独を恐れるのではなく、孤独だからこそ開ける道があると見抜いていた猪木。スポーツ平和党を一人で立ち上げ、バグダッド・平壌に単身飛び込んだ猪木らしい言葉。
"一生懸命やっている人を小馬鹿にするのは、自分がかなわないから笑うことで逃げているのだ。"
出典:自著・講演(広く流布)。本気で挑戦している人を嘲笑う心理の本質を鋭くついた言葉。批判する側の弱さを明快に指摘した、現代SNS時代にも響く名言。
自己成長と限界突破の名言:「馬鹿になれ、とことん馬鹿になれ」

「馬鹿になれ」は、猪木の人生観を最も詩的に表現した言葉として知られている。プロレスラーとしての異種格闘技戦、政治家としての敵地外交、晩年の闘病からのSNS発信——周囲から「常識外れ」「馬鹿げている」と言われることばかりに猪木は挑んできた。しかし、そのすべてが「本当の自分」を見つける旅であったと猪木は晩年に語っている。プライドや世間体を脱ぎ捨てた先にこそ、笑いながら歩ける「裸の自分」があるという、猪木流の解放の哲学である。
"馬鹿になれ、とことん馬鹿になれ、恥をかけ、とことん恥をかけ、かいてかいて恥かいて、裸になったら見えてくる、本当の自分が見えてくる、本当の自分も笑ってた、それくらい馬鹿になれ。"
出典:講演・自著で繰り返し朗読された猪木の代表的詩句(広く流布)。恥を恐れず全力で挑み続けることで、本当の自分に出会えるという猪木の人生訓。プライドを脱ぎ捨てた先にある解放感を詩的に表現している。
"もともとありもしない「限界」にこだわると、しくじったり、できなかったとき、「ああ、これが俺の限界だ、もうダメだ」とギブアップしてしまう。"
出典:自著・各種インタビュー(広く流布)。限界とは思い込みに過ぎないという猪木の主張。自分で限界を設定することの危険性を鋭く指摘し、アリ戦に挑む際の精神状態とも一致する哲学。
"自らに満足している人間は、それで終わりだ。"
出典:自著・講演(広く流布)。現状に満足した瞬間、成長は止まる——常に前を向き続けた猪木の哲学の核心。新日本プロレス設立から国会議員、外交、闘病まで、絶えず新しい挑戦を続けた猪木の生き方そのもの。
"コンプレックスをバネに飛躍することができるのではないか。"
出典:自伝・各種インタビュー(広く流布)。ブラジルでの農場生活、貧困、言語の壁——猪木が乗り越えてきた数々のハンデが、コンプレックスを力に変える発想の原点となっている。
"貧しいから手に入れようとするものがある。"
出典:自伝『アントニオ猪木自伝』ほか(広く流布)。ブラジルでの農場労働など貧しい環境が猪木を鍛えた。逆境や不足こそが欲望と成長の原動力になるという、猪木自身の体験から生まれた言葉。
晩年と闘病の名言:「死ぬエネルギーがあるくらいなら」
2020年代に入り、猪木は心アミロイドーシス(後にALS的症状ともされた進行性難病)に侵された。一時は体重が30kg以上落ち、車椅子生活を余儀なくされた。それでも猪木はYouTubeチャンネルを開設し、痩せ細った体で「元気ですか」と発信を続けた。晩年の猪木が見せた姿は、「元気があれば何でもできる」を「元気がなくとも、それでも生きられる」へと転換させる、最も切実な実践だった。2022年10月1日、猪木は79歳で永眠。亡くなる直前のインタビューやSNS発信は、闘病から目を逸らさず、最期まで「闘魂」を体現した生き方として、世代を超えて記憶されている。
"死ぬエネルギーがあるくらいだったら、まだまだ生きられると思った。"
出典:自伝および晩年のインタビュー(広く流布)。絶望的な状況に追い込まれても、そのエネルギーを生きる力に変えた猪木の逆転の発想。晩年の闘病期の発言としても受け止められ、極限状態での精神力の強さが伝わる。
"人間には、必ず人生の転機を直感し、的確に判断できるかどうかを試される時が何度かある。"
出典:自伝・各種講演(広く流布)。人生の転機を見逃さず、直感を信じて判断できるかどうかが運命を分けるという猪木の洞察。1957年のブラジル移住、1960年の力道山との出会い、1972年の新日本旗揚げ、1989年の出馬——いくつもの転機を生かした自身の経験に裏打ちされた言葉。
"何事も、まずはやってみる。話はそれからだ"
出典:晩年のインタビュー・著作(広く流布)。考える前に動く、議論より実践——猪木の「とにかくやる」スタイルを端的に示す。晩年、闘病中もこの言葉を体現してYouTube発信を始めた。
なぜアントニオ猪木の名言が今も響くのか
アントニオ猪木の名言が、彼の死後も色あせずに響き続ける理由は、言葉と人生が完全に一致しているからである。「迷わず行けよ、行けばわかるさ」と語った猪木自身が、14歳でブラジルへ渡り、力道山に弟子入りし、新日本プロレスを旗揚げし、世界ヘビー級王者アリと戦い、国会議員として湾岸戦争のバグダッドに乗り込み、北朝鮮で38万人のプロレス興行を実現させた。「元気があれば何でもできる」と叫び続けた猪木が、心アミロイドーシスに侵されながらも最後まで「元気ですか」と発信し続けた。言葉は飾りではなく、猪木の歩みそのものを記録する刻印だった。
もう一つの理由は、猪木の言葉が「行動を促す動詞型」で構成されている点にある。「行け」「やれ」「踏み出せ」「馬鹿になれ」——観念的な抽象論ではなく、聴き手の体に直接命令を下すリズムが、猪木の言葉には宿っている。これは、リング上で観客に向かって「元気ですかー!」と呼びかけ、観客の声を引き出してきたプロレスラーならではのコミュニケーション原理であり、現代のビジネス書や自己啓発書とは異なる血の通った迫力を持っている。
そして最後に、猪木の名言は「弱さの自覚」と表裏一体である点が重要だ。「俺にも迷う時もある」「コンプレックスをバネに」「貧しいから手に入れようとするものがある」——燃える闘魂の裏側にある、貧しさと迷いと恐れを猪木は隠さなかった。だからこそ、迷い、悩み、恥をかきながら生きる現代人にも、猪木の言葉は同じ目線で寄り添ってくる。「踏み出せばその一足が道となる」——道を持たない人にこそ、この言葉は今日も届き続ける。
アントニオ猪木の関連名言・あわせて読みたい
アントニオ猪木の闘魂を理解するうえで欠かせない、ライバルや弟子、同時代を生きた偉人たちの名言ページもあわせて参照されたい。猪木の師である力道山は、戦後日本のプロレス文化の創始者である。同期で生涯のライバルジャイアント馬場は、王道路線を貫いて全日本プロレスを率いた。新日本プロレスの黄金期を支えた前田日明はUWFを旗揚げ、長州力は革命を起こし「俺がやってやる」の闘魂を継承した。スポーツの世界で「挑戦」を体現したイチローや大谷翔平、絶望から這い上がる強さを語る吉田沙保里、行動の力を信じた本田宗一郎の名言とあわせて読むことで、猪木の「闘魂」がより立体的に理解できる。
よくある質問
アントニオ猪木の最も有名な名言は?
アントニオ猪木の最も有名な名言は「元気ですかーっ!元気があれば何でもできる!」です。プロレスの試合前に叫ぶこのフレーズは、日本中に知られるキャッチフレーズとなり、多くの人を元気づけてきました。
猪木の「道」の名言の全文は?
猪木の名言「道」は「この道を行けばどうなるものか、危ぶむなかれ。危ぶめば道はなし。踏み出せばその一足が道となり、その一足が道となる。迷わず行けよ。行けばわかるさ」という全文です。1998年4月4日の東京ドーム引退セレモニーで朗読され大きな感動を呼びました。原典は清沢哲夫の詩集『無常断章』所収の詩です。
アントニオ猪木の闘魂精神とは?
猪木の闘魂精神とは「燃える闘魂」というキャッチフレーズに象徴される、何事にも全力で立ち向かう姿勢です。プロレスのリングだけでなく、参議院議員としての政治活動や1990年湾岸危機での人質解放交渉、北朝鮮との独自外交においてもこの精神を貫き、多くの人に影響を与えました。
猪木の名言は仕事にどう活かせる?
猪木の「元気があれば何でもできる」「迷わず行けよ。行けばわかるさ」「出る前に負けること考えるバカいるかよ」という名言は、仕事における決断力と行動力の大切さを教えてくれます。考えすぎて動けなくなるより、まず一歩踏み出すことの重要性を示しています。
アントニオ猪木と異種格闘技戦の関係は?
猪木は1976年6月26日、日本武道館でモハメド・アリとの異種格闘技戦を実現させ、総合格闘技の先駆者となりました。この試合は15ラウンド引き分けに終わりましたが、後にUFCをはじめとするMMA誕生の原点として再評価されています。「闘いのゴングはいつでも鳴っている」という名言の通り、常識を打ち破る挑戦を続けた革命家でもありました。
アントニオ猪木の最後の言葉は?
アントニオ猪木は2022年10月1日に79歳で逝去しました。晩年は心アミロイドーシスの闘病中も、SNSで詩「道」を朗読し「元気ですか」と発信を続けました。最後まで闘志を失わず、「貧しいから手に入れようとするものがある」「踏み出せばその一足が道となる」という逆境を力に変える精神を体現し続けました。
"行き詰まりは展開の一歩である"
出典:アントニオ猪木『最後の闘魂』(プレジデント社、2022年)所収。晩年、心アミロイドーシスの闘病中にYouTubeチャンネル「最後の闘魂」(2021年開設)で繰り返し語った人生訓。(2026年5月追加収録)
"プロレスは闘いだ。ショーじゃない"
出典:1976年6月26日、対モハメド・アリ異種格闘技戦の前日記者会見(日本武道館)。村松友視『当然プロレスの味方です』(情報センター出版局、1980年)所収。「過激なプロレス」を提唱した猪木の理念を象徴する発言。(2026年5月追加収録)
"風になれ、人々を吹き抜けてゆく風になれ"
出典:1989年7月、参議院議員初当選時の演説。猪木が結党したスポーツ平和党の理念として全国遊説で繰り返し用いたフレーズ。アントニオ猪木『闘魂言霊』(扶桑社、2003年)所収。(2026年5月追加収録)
"夢を持つことの意味は、夢を持ち続けることだ"
出典:1998年4月4日、東京ドーム引退試合での最終マイクパフォーマンス。新日本プロレス公式記録『闘魂Vol.30』(ベースボール・マガジン社、1998年)所収。引退セレモニーで「道」の詩を朗読した直前の言葉。(2026年5月追加収録)
"人質は私が連れて帰る"
出典:1990年12月、湾岸危機下のイラク・バグダッドで開催した「スポーツと平和の祭典」記者会見。猪木はサダム・フセイン政権と直接交渉し、日本人41名を含む人質解放を実現した。アントニオ猪木『俺はずっと現役だ』(双葉社、2013年)所収。(2026年5月追加収録)